Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

空白こそ満ちている

はじめに

どもー!
タクさんです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

あの芭蕉さんの一句なんですが、これいいですよねー。
蝉がミンミン鳴いてるのに、そこに“静けさ”を感じるという、あの不思議な感覚。
子供の頃の蝉とりのワンシーンが蘇ってきます。

雑音の中にある空白。
音の中にある静けさ。

まさに、静寂は周りの音とは関係ないということを見事に表現していますね。

そして、その静寂は心のわだかまりや重みをスーッととかしてくれるような、
そんな安心感を感じさせてくれます。

ですが、僕らってそんな静寂の良さを知りながら同時にその静寂を恐れていたりするんです。

思考ちゃんが沈黙を嫌うワケ

ま、厳密にいうと静寂を恐れているのは思考ちゃんなんですけどね。
思考ちゃんは常に周りに気を配り、安全を保とうとします。
それがスッと消えてしまうと、とても危なっかしく感じたりするんですよねー。

ぼーっとしててふと我に帰ると
「やべー!ぼーっとしてたー!」
ってなりますもんね。

同時に思考って実体としてあるモノじゃないってのも大きいと思うんです。
思考ってね、本当はないんですよ。
だからずっとあるように演じ続けなきゃ行けないんですよねー。

そのためにはずっと思考は動き続けておかなきゃならないんです。
そして、それが止まるとなくなってしまう!みたいな恐怖感もあるのかもしれませんね。

その恐怖感は最終的には死の恐怖に繋がっています。
それは自分という存在の全てを失ってしまうという恐怖です。

ですのでまるで、自分という存在をつなぎとめるために思考ちゃんはずっと働いていようとするんです。

思考をごまかす、日常のクセ

だからこそ、僕らは空白になるとすぐ何かで埋めようとしちゃうし、もうそれがクセになっていたりするんです。

・ ちょっと暇ができるとスマホを手に取ってSNSを開く
・ 部屋がシーンと静かだとYouTubeで適当な動画を再生しちゃう
・ 仕事中でさえラジオや音楽を流して、無音を回避したくなる

これらもまた、ただの暇つぶしに見えて、
思考ちゃんを薄く回し続けておくという作業なんです。

つけっぱなしのテレビや、なんとなく開いたニュースサイトも、
静寂を回避するための対策だったりするんです。

静寂の素晴らしさを知っていながら同時に静寂を恐れ、
考えてなきゃ恐ろしいことが起こるという不安から、
常に思考を回し続けて気がつけば、それが日常になってるんです。

無言には、満ちているものがある

ずっと喋らずにいるかのようにしてみると、
思考のおしゃべりも静まってきます。

するとそこにはとてつもない豊かさがあることに気づけると思います。

変な話、僕らはこの豊かさを求めて、それを思考のおしゃべりで解決しようとしてた。
っていう、なんとも皮肉な答えに気づくかもしれません。

この静寂は、退屈でも、虚無でもありません。
退屈や虚無もまた思考が作り上げたモノだったと知るんです。

静寂の満ち足りた感じは思考では理解できないモノなんです。
なぜなら、思考は無ではなく有で埋めることを満ちていると定義しているからなんです。
だから、満ちた感じを欲っするほどに何かで埋めようとしちゃうんです。

空白は、全てを失うこと、満ちることとは逆だと錯覚しちゃうんですよねー。
もうこれは、思考ちゃんの構造上しかたがないことなんです。

ですので、思考ちゃんの恐れは一旦おいておいて、
空白に身を預けてみればいいんです。

おしゃべりをやめてみるんです。

すると、何も失うものはないし、そもそも得てすらいないこと。
そして全てに満ちていることを知るんです。

 

takuteto.hatenablog.com