Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考を手放すのが難しい理由

はじめに

どもー!
ゲームの終盤が近づいてくると終わるのが嫌でやたらと引き伸ばし、結局クリアせずにそのまま放置しちゃうクセがあるタクさんです。

なんでしょうねぇこれ。ショートケーキのいちごを残して結局食べないって感じで変ですよね。

ま、それはさておき、思考を手放すのってめちゃくちゃ難しいですよね?

なぜなのか?といいますと
そもそも僕らは思考を握っているわけじゃないからだったりするわけですが、僕らは思考を手放そうとするほどややこしくなる理由があるんです。

今日はそんなお話をしてみたいと思います。

「手放す私」を作ろうとする罠

思考を手放そうとするとややこしくなる理由はここです。
それは、「思考を手放した私」というキャラを、思考の中で作ろうとしちゃうからなんですよねー。

ん?今の私は上手く思考を手放せてる??って確認しちゃったりもするわけです。

でもこの「私」という概念自体が思考の産物ですのでねー。
だから思考の中で「思考を手放す私」を頑張って作っても、一生うまくいかないんです。

また、瞑想してみたり座禅をしてみたり、しばらく言葉を排除してみようと試みて少しの間思考の空白を作ろうと頑張ってみても結局思考が戻ってきてしまうというパターンもよくあります。

これも例えるなら、ジャンプを繰り返して空中に浮こうとするようなものでしてねー。
トランポリンを使えば高くジャンプができて少しは浮いてる気がするけど、結局は地面に戻ってきてしまうわけです。

観察のコツは「私」を置いておく

「じゃあどうすればいいのよー!」
ってことでよく言われるのが「思考を観察してみよう」ってやつです。

でもここでもまた罠がありましてねー。
観察してるつもりで分析が始まっちゃうんです。
「この思考の原因は何だろう」「なぜこんな感情が出てきたんだろう」って。
思いっきり分析の世界に入り込んじゃうんですよね。
そして気づけばまた思考のど真ん中って感じになるんです。

そこでコツとしては、
一旦「私」という概念を置いておくのがいいと思います。
「私は不安だ」じゃなくて
「不安な思考が浮かんでるんだねー」って感じで眺めるんです。

もちろんこれも思考なので、
「これだって思考じゃん」って湧いてくるかもしれませんが、
「あ、これだって思考じゃんっていう思考が浮かんだなー」ってまた眺めればOKです。

観察者の意識(仮)

こうしていると、いわゆる「観察者の意識(仮)」に触れるかもしれません。
思考は常に移り変わっていくけど、観察者は変わらずココにいるんです。
そんな感覚です。
(※実際に観察者がいるわけではないのでこれも思考なのですがややこしいので観察者の意識(仮)ということにしておきますね。笑)

映画で例えるとわかりやすいかもしれませんが、
スクリーンの中では登場人物が走ったり泣いたり事件が起きたりして常に移り変わっていますよね?
でも見ている観客はずっと椅子に座ったままです。

それと同じで、僕らもただここで、思考の映像を見ているだけなんです。

観察すらやめてみる

そんなただみている感じに慣れてきたら、今度は観察すらやめてみるんです。
するとスーッと観察も薄れてきて、ただの空白の「イマココ」が残ります。

なにかしらの問題を解決しようとする必要もありません。
思考をしない私を作る必要もありません。
ただ在ってみるんです。
するとその静けさの中で、ふっと真実性があらわになってくるんです。

そして、思考を掴んでおきたいという衝動性のクセを見つけたら、「お前か!」ってつっこんでみてあげたらいいんです。


 

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