
はじめに
はいどうもー!
タクさんです。
僕らの周りにはいろんな人がいるかのように見えるじゃないですか。
カラフルな服が好きな人。
はたまたモノトーンの色合いを好む人。
甘いもの好きな人と、しょっぱいもの派の人。
酒が好きな人と、苦手な人。
賑やかなのが好きな人と静かな空間を好む人。
まるでみんな自分の中に独自の世界があるかのようにみえますよね。
だから、あの人と自分はやっぱり違うし、違うからこそ自分は個人として存在しているって感じちゃうものです。
きょうは、そんな境界線について語ってみたいと思います。
違うように見える夢のはじまり
「私はこう思う」「あの人はこう感じてる」っていう感覚。
たしかにめちゃくちゃリアルに感じますし、どう考えても違いがあるように思えるものです。
でもこれって「私」と「あの人」っていうストーリーなんですよね。
そんなストーリーが無意識のうちに始まってるんです。
僕らはこのストーリーの中だけで、まるで別々の世界があるように見えているんです。
僕らが見ているストーリーではもうすでに分離が完成しているんですよね。
たとえば音を聴いたとき。
「私が音を聴いた」っていうのが、当たり前の感覚に思えますよね?
でも実際は、ただ音が鳴ってて、その響きが現れてるだけなんです。
「見る」っていうのも同じ。
風景がただそこにあって、光の感触が広がってる。
“誰かが見てる”っていうより、“見えている”という現象が起きてるだけなんです。
つまり、内側と外側の区別がないところで、ただ感じられているだけってことなんですよね。
内と外、あるようでないもの
「内側の私が」「外の世界を」感じたり見ているという構図は、完全に後づけの設定です。
たとえば映画を観てるとき、
スクリーンの右と左に“意味のある境界”なんてないのに、
思考は勝手に区切って、主語と目的語を作って、意味をつけていくんです。
でも、実際にはそういう分け方ができる“線”なんてどこにもありません。
ただ現れてるだけ。
内と外という区別もまた、思考がつけたラベル、しかも架空のラベルなんです。
そして僕らは、そのラベルの中で、
「自分だけの世界」を見ているつもりになるんですよねー。
まるでひとつの部屋で寝てるみんなが、それぞれ別々の夢を見ているようなものです。
夢の中では、確かに「私」がいて「他人」がいて、「好き嫌い」があって…
でも目が覚めたら?
それはただの夢の中のストーリーだったと気づくわけです。
つまり、個別の世界なんてものは、実体としては存在してないってことなんですよね。
「あなたの世界」こそ全体そのもの
あなたの中に現れている感触、
見えているもの、聴こえているもの。
それこそが全体なんです。
他人と比べる必要もなく、
分ける必要もなく、
ただ現れているものを感じているだけ。
「私の世界」と「あの人の世界」をわける境界線は、夢の中の演出なんです。
僕らはよく、「自分と他人」とか「内側と外側」とか分けて考えがちですけど、
それってただ、そう“思ってるだけ”なんですよね。
感じているものは、ただ感じられているだけ。
見えているものは、ただ見えているだけ。
そこに優劣も区別もない。
解釈としてそれを分けようとするから、変に優劣という幻想が出てくるだけなんです。
分けようとする時、そこにその衝動がただ現れているのが見えるかもしれません。
その衝動もまた、誰かがやっているわけじゃないんですよね。
その衝動をどうにかしようとせずに、ただ気づいていてあげるといいんです。
それがそのまんまいさせておいてあげるということです。
そうすると、幻想に巻き込まれる力がふっと抜けるような感覚があるかもしれませんよー。