
はじめに
どもー!
オハです!タクさんです。
さて、いわゆる一瞥と言われるようなすっごい開放的な体験をしたとするやないですか。
もう、思考がスーッと引いて、スカーってなって「これがソレかも!」みたいな感覚のやつです。
でも、しばらくするとまた思考がムクムクと戻ってきて、
「あれれれ?まだ自分には思考があるぞ」
「あの感じが『それ』なら、これは違うんじゃ?」ってなったりしてね。
ついには「まだ自分には未消化な思考が残ってるのかもー」みたいな思考ちゃんループが始まっちゃったりしてねー。
ここでのよくある誤解は、「開放的な感覚こそが本当の自分(=それ)」で、思考や感情は邪魔者だって思っちゃうことなんじゃないかなーって感じるんです。
でもその思いって思いであるからにはやっぱりひとつの物語なんです。
つまり「開放的な状態がゴールで、それを思考が邪魔してる」っていうストーリーを追いかけちゃってるって感じなんですよねー。
さらによくあるのが、
「すべての中であらゆることが起こっている」
「神の戯れが展開されてる」
「ビバリーラ!」みたいなやつね。
これもまた誤解されやすいんですよ。
「色即是空」っていう言葉があるじゃないですか。
「色(現れ)」はそのまま「空(実体なき全て)」ってことなんだけど、これを「色→空に変化する」みたいに思っちゃうとズレるんです。
「悟りに近づく=何かが消える」とか「思考を滅却することで本質に触れる」っていう新しい物語を作っちゃうんですよねー。
・現れてることそのまんまが「ソレ」
悟りだとか非二元だとか呼び方はなんでもいいんですが、これって別に複雑な話じゃありません。いたってシンプルなんです。
目の前に起こっていること、それそのままが「それ」なんです。
文字にすると、ものすごく当たり前ですよね。
「煩悩が湧いてるな〜」という思いすら、それがそのまま「ソレ」なんです。
となると、
「なるほど、ソレを観ているこの存在のことね!って思うかもしれません。
ですが、「おっ、自分はそれを観てる存在なんだな!」って気づいたとして、これもまた物語なんです。
そこからさらに、「観てる自分に執着してたわ!この執着を手放さなきゃ!」ってなっても、それも物語。
「私は悟った!」という思いもまた物語で、「悟った!といってる人は悟ってません!ソレは個人です(笑)」という言葉もまた、ただの物語なんです。
なるほど
「確かに、これも思考だって言われればそうだわ〜」って気づいたとしても、これまた物語!
さらに一周して「もうこういう探求とか一切やめて、本も全部捨てる!」って決意したとしても、それもまたキレイに物語なんです。
・意味付けの罠と「わけがわからん」の自由
そして、どんな考えや信念も、雨が降るとか風が吹くのと同じ。誰がやってるでもなくただ起こってるだけなんです。
それに「私」をくっつけて私の物語にしてるだけなんです。
そしてその物語をもっと良くしようと「思考や不安を手放すぞー!」っていう新たな物語を作るんです。
でも、その「私」自体が幻想。蜃気楼みたいなものなんです。色即是空。つまり、起こってることそのものが空=静寂であって、そこに別の静寂があるわけじゃない。
起こっていて、同時に起こっていない。そこに「行為者」もいない。ただ、意味が後付けされてるだけでその意味づけも誰かがやってるわけでもないんです。
そして意味をつけることで、自分の自由をせばめてしまい、
より良い意味を求めれば求めるほど、どんどん縛られていく。
自由が奪われるから、苦しくなって、また意味を求めてループしちゃったりもするわけです。
そしてそのループ自体が、また物語というわけです(笑)。
ま、「わけがわからん」ですよね。
だったらその「わけがわからん」ままでいいんです。
そのまんまがあるがままです。
その「わけがわからん」を気が向いた時にでもそのままにしておけばいいかもです。
ハンドルを握ってコントロールしてる誰かがいないという面白い「あるがまま」があらわれてくるかもしれませんよー。
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