
はじめに
どもどもっ!タクさんです。
いやー、こないだね。
公園を散歩してたんですが、その公園には桜の木がたくさんありましてねー。
それを眺めながらの散歩だったんですが、桜の木ってみんなものすごい個性があるんですよ。
枝の伸ばし方から木のうねり方。木の高さもみんな全然違って個性的なんですよねー。
僕ら人間は、手が2本で足も2本、身長も大体150cmから200cmの間で収まってますよねぇ。
でも桜の木は枝の数からその形状から高さからみんな全然違っていて、個性が強いなーと感じました。
これを桜の木という一言で片付けてしまうのは、なんていうかものすごく強引だよなーって思ったんですよねー。
ちなみに、僕の大好きな金魚も、ものすごく個性的です。
丸っこいのもいれば、ほっぺに風船みたいなものがついていたり、背鰭がなかったり頭がボコボコしてたり、これも金魚というひと言で済ましてしまうのもこれまた強引ですよねー。
言葉で表現される世界ってもしかしたら、ものすごく強引に簡略化された世界なのかもしれませんね。
・表面的な静けさ
さて、僕らは自然に触れていると、なんだか思考も落ち着いてくるってなものです。
なぜなのか?はよくわからないですが、僕の推測としては、
人工のものにはすべて、人の意図が組み込まれているからなのかもしれません。
人の意図とは思考ですもんね。だから人工のものをみると僕らはとっさにその意図も汲み取っているわけです。
すると、その意図によって広がる思考の影響も気付かないうちに受けているんだろうなーって思うんです。
思考が静まってくると、なんとも言えない安心感を感じたり、静けさを感じたりしますよね。
瞑想や坐禅なんかでも、徐々に落ち着いてきて思考が鎮まり、静けさに包まれるような感覚になったりします。
ですので、いわゆる悟りや非二元といった界隈では思考が鎮まりやすい自然の中で静かに過ごすといったようなイベントがよく行われているのかもしれませんね。
ただこれって、思考が一時的におとなしくなっただけで、日常に戻ると仕事のトラブルだとか、家族や人間関係のいざこざといったような、刺激的な思考が舞い戻り、せっかくの静けさも一気に吹き飛んでしまう!
なんてことになったりする方も多いかと思います。
するとまた、「静けさを取り戻さなければー!」ってな感じになっちゃって、結局は行ったり来たりになったりもするんですよね〜。
・終わらない探求
まあこうやって行ったり来たりするのって、静けさが正しく、思考の喧騒にまみれているのが間違いといった思い込みがあったり、静けさと安心感に包まれた感覚へのある種の執着を持ってしまっているからなのかもしれません。
思考がおさまった時に感じる安心や静寂ってのは、海でいうと表面上の波が一時的に収まってるようなものに過ぎず、これっていわゆる大元の静寂とはちょっと違うんです。
つまり、求めている「コレ」とか「全て」とは全然違って、これは単なる状態に過ぎないんですよねー。
ですので、この状態こそが「コレ」だ!という勘違いがあると、延々と終わらない探求が続いてしまうってなことになっちゃったりするわけです。
思考の静けさを求めるな!ってことじゃないんですよ。
思考の静けさを求めるべき!というこの「べき」に囚われちゃうと勘違いを助長しちゃうよーということなんです。
「だったら、何が正解なんだー!」「どうしたらいいんだー!」って思うかもしれませんけどねー。
それなら、そういう思いが勝手に湧いているだけ。ってことなんです。
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