Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分は何もしていない。ただ解釈として自分という概念が使われているだけ

はじめに

どもー!
タクさんです。

さて、みなさんは釣竿についてどう思いますか?
僕はあのしなる感じがめちゃくちゃかっこいいと思ってるんですよー。
ぐわーってしなるの、いいですよね。
そして、そういうのをみるとどうしても「これ、どこまでしなるんだろう?」って試したくなるんです。
あのギリギリのところで耐えてる感じが、なんとも言えないっすよねー。
もちろん曲げすぎたらバキッと折れちゃうわけで。とはいえ、「どこまで曲げたら折れるんだろう?」って、そのギリギリを知りたくなっちゃうものです、人間だもの。

実は子供の頃にそれをやらかしちゃったんですよねー。
親父の釣竿を折っちゃったんです。
もちろんそーっとしまっておいて、今でもこのことは内緒にしています。
数十年経ってもまだバレていません。

・イラっとする瞬間って勝手に起こるよね。

さて、釣竿の話は置いておいて、みなさん、思い通りにいかない時って、イラっとすることありますよね?
例えば、仕事でミスしたり、誰かに予想外のことを言われたりすると、
心の中で「なんでだよ!」って叫びたくなっちゃったりしてね。
そんな時、冷静になろうと思って「おっと、落ち着け、自分!」ってなることもあれば、ついカッとなって余計な一言を口走っちゃうこともあるってなもんです。
そして、後から「あー、なんで自分はあんなこと言っちゃったんだろう…」って蒸し返しては逡巡したりするんです。

ですが、そもそも、イラっとする瞬間って、自分で「よし、今からイラっとするぞ!」って決めてるわけじゃないんですよね。
釣竿が「ここで折れる!」と決めてないのと同じで、自然に湧き上がるものなんです。

それに、イラっとした後に「落ち着こう」と思うか、「余計なことを言っちゃうか」も、自分で決めてるわけじゃないんです。
勝手に我慢したり、勝手に何か口走ったりしてるんです。

中古車ってクセがあると言われてたりしますが、思考ちゃんもクセなんですよね。

結局のところ、僕らって「自分」をコントロールしているようで、実はしてないんです。
つまり、「自分」というものが何かをコントロールしてる主体だと思考の中では信じてるけど、実はそんなものは存在しないんです。

・解釈として自分という概念が使われているだけ

「私はいない」という言葉って、一見よくわからないものですが、これってそんなに難しい話じゃなくて、「行動している主体としての自分は存在しない」ってことなんです。

赤ちゃんには「自分」なんて概念はありません。
泣きたい時に泣いて、笑いたい時に笑う。それだけです。
でも、言葉を覚え始めて「私」という概念が芽生えると、それをどんどん強化していくんですよね。「自分がこうした」「自分がこうなりたい」ってな感じでね。

実際には、その「自分」っていうのも、思考が作り出したイメージなんです。
だから、無理に「自分」という概念を思考の中から追い出そうとしなくてもいいんです。
っていうか、そんなのできないですよね。
だって、思考は勝手に「自分」という概念を使っちゃってるわけですから。

自分が消えるってことでもありません。
「あ!今私の中から「自分」が消えた!」って思ったとしても、その時すでに「私から」って言ってるじゃん!
私の中の自分ってどういうことよ!
ってなりますもんねー。

歩いたら歩く感触がある。風が当たれば頬に風を感じる。
ここに自分という概念が入り込む余地はありません。

そんな感覚を感じてみると自分は何もしていないことが確かめられると思います。
すると、ただ解釈として自分という概念が使われているだけだということに気づくんです。

 

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