Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考も執着も手放す以前に手に入れてすらいないんです。

はじめに

どうもー!
タクさんです。

思考ちゃんをちょっと今だけ脇に置いてみる。
これはね。「今だけ」ってところがミソでしてね。
思考を手放した状態を保つ練習というわけじゃないんです。

思考ちゃんって、僕らを巻き込んできますし、下手したらずっと思考まみれになってしまう。
そして、思考まみれになってると、どっと疲れてしまうし気分も落ち込むしツラいし、、、。

「なんとかしたーい!」
「イヤな思考を追い出したーい!」

って思ってる方も多いかと思います。

そんな時に、思考ちゃんをちょっと脇に置くコツ。みたいなものを聞くと、その状態をずっと保っていたい!って思っちゃいますからねー。

そして、この状態を保ちたいというのも思考じゃないか!
これも手放すと言ったって、手放そうとすればするほど、手放そうという思考まみれになってしまうー!

ってね。
思考ちゃんの蟻地獄にはまったような気になっちゃったりするんですよね。

ですが、別に一切合切の思考を手放して、その状態を保とうとしなくてもいいんです。
ただ、ちょっと今だけ脇に置いてみればいいだけです。

これは、思考って別に誰かがコントロールしているわけでもなけりゃ、なにかしらの大きな力を持っているわけでもないという、思考の本来の姿をみるための呼び水のようなものなんですよね。

僕らが見ている思考の世界は、まーなんていうか豆乳の上にできる湯葉みたいなものでしてね。
膜のようなほんの上澄みでしかない世界なんです。

そうすると、勝手に思考への執着がうすれるというかねー。
そもそも執着なんてものもなかったじゃないかーってなことがバレてくるんですよね。
変な話、思考だけが思考に執着してるんですよ。

ですので、頑張って手放そうしなくても、手放した状態を保とうとしなくても全然いいんです。

なにも掴んでないし手に入れてすらいない

そもそも僕らは手放す以前に手に入れてすらいないんです。掴んでもいません。

車窓の外に流れる風景って別に誰のものでもないじゃないですか。
誰かが持ってたり、それをコントロールしてたりするものじゃないですもんね。

思考もまた、車窓の外に流れる風景のようなものなんです。
雨模様がダメでもなく、晴れた景色が良いというわけでもないですし、
風が吹こうが、嵐が来ていようが、車内からみるぶんにはなんの影響もないんですよね。

良い思考もなければ、悪い思考もないですし、必要な思考もなければ、よけいな思考なんてものも無いんです。

あえていうなら全て起こるべくしてただ起こっているだけですし、
そんな思考を僕らは掴むこともできませんし、掴んだことすらないんですよね。

自動運転

ただ起こり、消えていく。それだけなんです。
どんな思考が起こったとしても、案ずることはないんです。

これらは自動運転ですのでね。
ハンドルを握って自分がコントロールしているように装ったとしても
ハンドルを離しても、ちゃんと勝手に動いているんです。

だからコントロールしようとやっきにならなくてもいいですし、手放したとしても別に何も変わらないんです。

思考は全ての中のほんの上澄みで起こっているものでして、それは常なる変化として現れています。

ですが、そんな上澄みにこだわらず、ぐっと奥に入り込んでみると
絶対的に変わらずにデーンと構えている「コレ」があるんです。

思考の中で作られているワタシは、ただの解釈として作られたただのイメージなんですが、その奥にデーンと変わらずに、ずっとココに本質のワタシが鎮座しているんです。

 

 

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