Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は一体どこにある??

はじめに

はーい。
どうもタクさんです。

車窓から見える風景って慣れ親しんでしまうとどうってことないですが、旅行に行くとこの風景がとても興味深かったりしますよねー。

まあ、当たり前のことですが、風景を見ている時って私はどこにいるのかと言いますと、風景の中にはいないですよね。

ここは異論がないと思うんですよ。

では、小指を怪我したから絆創膏を貼って治りを待つ。
この場合、私はどこにいるんでしょうか?
これちょっとややこしいですよねー。

怪我をしたのは私、怪我をした箇所は私の一部である小指つまり私。
そして、怪我を治すのも私なら、治りを待つのも私。

なんか私だらけでどこに「私」がいるのかよくわからなくなっちゃいますよねー。
怪我をした時は怪我をしたのが私。
それを治そうとした途端、治すのが私になり、傷が癒えるのを待つ私もでてきたりするわけです。
書いててもよくわからなくなっちゃいました。

私は一体どこにいる??

私というのは、起こっているストーリーに対して、その主体側に居るものを私とする。
なんかそんな法則がありそうです。

だから、普段は身体を私としているわけですが、絆創膏を貼ろうとした時点で、この身体は主体ではなく客体になってしまうので、私がススーッと移動しちゃうわけです。

心臓の鼓動。これは私の心臓の鼓動だ!って感じますよね。鼓動は私の心臓が打っているものだ!ってね。
この場合は体は所有物のようになってたりします。
ですが、この鼓動を私が打っているのか?というとそれは違うんですよねー。
でも、じゃあこの鼓動は誰の鼓動なんだ?となるとやっぱり「私」になっちゃうわけです。

なんか、この辺りになってくると変ですよね?
でも「私」をぜーんぶ取り払っちゃうとスッキリするんですよ。

怪我をして治る。心臓が鼓動を打つ。
ココになーんの問題もありません。

ここに「私」を持ち込むから変なことになっているんです。
「私」なんて最初っからいないわけです。
それを付け加えることでことがややこしくなっているんですよねー。

ストーリーを暖かく見守る存在

そもそもね。
僕らの目の前の世界ではなんの物語も生まれていないんですよ。
物語自体が存在してないんです。

ただ、思考ちゃんはそんな目の前の世界を物語仕立てにする機能なんです。
そうしないと目の前の世界を捉えられないんですよね。
だから目の前の世界を加工してなんとか捉えているんです。
そして、物語には主人公が不可欠ですので、主役としての「私」が登場するわけなんです。

この私は単に物語の主人公の呼び名のようなものです。
アルプスの少女ハイジに出てくるハイジのようなものなんです。

主人公のハイジには幸せになってほしい!と思うものですが、僕らはそれをコントロールできません。
ただ、ハイジを見守るだけです。

そして、ハイジに何があろうと大丈夫なんです。
なぜならそのハイジはセル画に描かれた絵だからです。

思考のストーリーも何がどうあったって大丈夫です。
それはこのストーリーは思考で作られたイメージだからなんです。

だからといって思考の中の私が大丈夫になるわけではありません。
この私はあくまで物語の主役としての「私」ですからねー。

僕らはそれを温かい目で見守っている存在なんです。

 

takuteto.hatenablog.com