Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟った人なんていないよ!という言葉が表現しているもの

はじめに

はいどうもー!
タクさんです。

さてみなさん。
夢の中で夢に気づくってことありませんか?
僕はですねぇ。
空を飛ぶ夢をみた時に、よく気づきますね。

あ、またこの夢かぁ〜って感じです。

とはいえ、ちゃんとその夢の中で飛ぶんですけどね。

夢の中で夢と気づく時、なんていうか、夢を夢だと気づくだけですよねー。
そして、そのまんま夢の中にいることもあるし、夢が覚めることもあるわけです。

そして、夢を夢と気づいたとて、別にこの夢をなんとかしようとしないですよねぇ。
あー、夢だったんだー!で終わりだと思います。

また、次の日に夢を見るかもしれませんが、別にそれはそれでオッケーですもんねー。

思考に気づくってのも、これと似たような感じなんです。
「お!思考って思考かぁー!」って気づくだけなんです。

むちゃんこ当たり前のことを、当たり前に知るだけなんですよねー。

ただ、思考は思考って気づくことによって、思考は真実ではなく幻想ストーリーのようなものだったことを知るんです。

それは、夢に気づく時って、夢が幻想ストーリーであるということも同時に気づくじゃないですか。
あれと同じような感じです。

思考って思考かーって気づくことによって、若干思考から覚めるんですよね。
なので、思考の幻想性を改めて知るって感じです。

夢に入る前って夢から目覚めてるじゃないですか。
あれと同じように思考から覚めてる自分って意識してないだけでずっとココにいた!ってことも知るんです。

ただここでちょっと厄介なのは、この時の気づきを体験の知識として思考の中にも若干入っちゃうことがあるんですよねー。

ここで混乱されている方もおられるんです。

悟った人なんていないよ!という言葉が表現しているもの

思考ちゃんって常に真実を求めるじゃないですか。そしてより確固とした真実を求めて探求を繰り返したりしますよね。

そして、人から聞いた話だったり、体験を通して得た知識なんかを思考の土台として組み上げていくわけです。

この働きは別に思考は思考であると気づいたところでなくなるわけじゃありませんからねー。
気づきの体験もまた一つの知識として思考の中に入っちゃうことがあるんですよね。

そうなると、思考は幻想であるということを体験を通した知識として持っちゃうっていうねー。
そんな妙なことも起こったりするわけです。

このせいで、なんか全てに悟った自分といったような錯覚を持ったり、
思考が幻想だと知ってしまったからなんか虚しいという錯覚を持ったりしちゃうわけですねー。

こんな錯覚もまた、ちゃんと思考から覚めて、探求クセが抜けてきたなら治りますので、自分は悟ったー!みたいな感覚になったならちょっと落ち着いてあまり周りに言い回らないほうが黒歴史にならなくてすみます(笑)。

悟った人なんていないよ!という言葉はこういった事を表現しているわけなんですねー。

お気楽ポンチ

夢を夢と気づく時って、なんか夢の特性みたいなものも同時にわかったりするじゃないですか。
それと同様に、思考は思考だ!と知ると、自動的に思考の特性のようなものにも色々気づくんですけどね。

例えば、思考ってものすごくエネルギーを食うってことを知ったりします。
ちょっと思考の回転を止めるだけでものすごい省エネ効果があるんですよねー。

ありとあらゆる病気や体調不良も思考を回しすぎてエネルギーが枯渇してることが端を発している!といっても過言ではないほどです。

そんな思考ちゃんの特性を知るほどに徐々に省エネになってくるんですよねー。
この辺りが、深刻さの減少に繋がっているんだと思います。

また、しっかりとした選択をしなければならない!といったプレッシャーもそんなの意味ねーよ!そもそも選択すらしてないし!って感じですので、そういう深刻さも減るんですよねー。

だからといって、適当に選択するということでもなく、場合によってはちゃんと吟味に吟味を
重ねたりするんですけどね。

ま、とはいえ思考の働きがなくなるわけでもなく、単にちょっとお気楽になるだけってことなんです。
結構ここってオモロく生きるには大きいんですけどねー。

 

 

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