Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づきの入り口

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

どうですか?ちゃんと退屈してますでしょうか?
退屈を埋めようと躍起になったりしてませんでしょうか?

退屈ってねぇ。一見いやだー!って感じたりするかもしれませんが、
これってね。いわゆる思考ちゃんの抵抗みたいなものなんですよ。

なーんにも考えることがない、なーんにもすることがない時間。
これが退屈というわけなんですが、この退屈さを埋めようと動画を見たり、暇つぶしのゲームをしたりしちゃうんですよねー。

昔はね。
退屈な時間があると、目の前のなんて事のない自然に目を向けるしかなかったわけです。
蛙が飛び込む水の音の余韻に浸ったり、ゆったりと行き来する海辺の波の音を感じたりね。

そんなひとときを感じていると、心の中の喧騒は洗い流され、今ココにある静寂に戻らざるを得ないわけです。

ですがねぇ。
昨今のスマホの発達で、あらゆる情報にリーチできるっていう素晴らしい機能を持つ反面、副作用として僕らから退屈を過剰に奪い取り、ちょっとした情報中毒のような症状をもたらしてしまう。
そんな危険性もあるんじゃないかなーって思うんですよね。

しかもどうでしょう?
最初は退屈を埋めるために動画を見ていたはずが、そのうち動画を見ている間さえも退屈に感じるようになり、いろんな動画を行ったり来たり、挙句には動画を見ている間の退屈を埋めるかのようにショート動画が流行ってきたりしちゃってねー。

僕らの退屈はテクノロジーの発達によってどんどん埋められてしまい、今や僕らの可処分時間(退屈)の奪い合いの様相を呈しています。

ここで、いかに僕らは自分の退屈を守れるか?
これが問われているのではないか?
なーんて気がしてたりするんですよね。

気づきの入り口

そもそも退屈を埋めようとする働きは思考ちゃんの静寂への抵抗のようなモノなんです。
そもそも思考というものは実在しているモノではありません。
これは例えば、走っている間は走るがあるように見えますよね?
歩いていれば、歩きがあるように感じるかと思います。

踊っていたら、そこに踊りが生まれますし、
歌えば、歌が発生します。

これと似たようなモノで、思考ちゃんも思考のストーリーを展開すればそこに思考が表現される。みたいなモノでしてね。
実在しているモノではないんですよ。

ほら、よく実際にはココしかなくて、アメリカも中国も存在してない!
みたいな例えってあるじゃないですか。

あれも、思考が働いていなければ、そんなのありませんよねーってな話なんです。
テレビをつければテレビの中の映像が実際にあるかのように表現されますが、スイッチを切ればなーんにもないという事なんです。

思考を手放すのってむずかしー!って感じる方もおられるかもしれませんが、思考の中の自分が思考を手放そうとするから難しいわけでして、これってそもそも靴が靴を脱ごうとするみたいな話でしてそもそも無理なんです。
ですが僕らは手放す以前に思考を手に持ってすらいないんです。
それに気づくだけなんですよね。

その気づきの入り口が退屈にあるというわけです。

なぜ思考が退屈を嫌がるのか?

なぜ思考が退屈を嫌がるのか?と言いますと、
思考って思考が止まるとダメだ!って思ってるんですよ。
そのくせ、実はしょっちゅう止まってるんですけどね。
夜になると寝たりしますし。

思考って止まってても大丈夫なんです。
必要があれば、ちゃんとスイッチが入って動き出してくれますからね。
常に動かしてなくても大丈夫なんです。

ですが、思考ちゃんだけは、常に動かさないと危険だー!って思ってるんですよね。
だから、退屈になるとなんとかそれを埋めようとするんです。

動画とかを流していると、思考のストーリーを自分で提供しなくても勝手に提供してくれるので楽でもあるんですよね。

ですので、退屈しのぎも、自分から文字を読むと言ったような読書からどんどん楽な方へと流れていき、次第に思考のストーリーを作るのも他人任せになりつつある。
そんな感じなんだと思います。

また、退屈すると嫌なことばっかり考えちゃう!ってのも思考ちゃんの必死の抵抗の一つでして、どうにか思考を回して静寂を追い出そうとしているんです。

だから余計に退屈は嫌だー!って感じるかもしれませんが、是非試しに退屈の中にダイブしてみたらいいと思います。
その退屈さの中に静寂かつエネルギッシュないまここが隠されていますからねー。

 

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