Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探究が終わらない理由

はじめに

はいどうもー!
タクさんです。

いわゆる悟りの例え話でよく僕が使っているのが、
足が立つところでバシャバシャって溺れてるようなものだよー。
ってものです。

バシャバシャって溺れそうになってる時って藁をも掴む思いで、なにかしらを掴んでおきたいものですよね。
そして掴めるところを見つけてほっと一安心するんですが、今掴んでいるモノもどこか心許ないのでもっとしっかりと掴めるものを探して絶対に溺れないようにしたい!
ということで、より確固としたつかみどころを探し求めるわけです。

この掴んでいるものこそ、いわゆる思考のストーリーの元となる観念のようなものなんです。
正しい判断材料のようなものと言っても良いかもしれませんね。

ですが、何も掴まなくても水深はそれほど深くないのでちゃんと立てるんだよ!
という話なんです。

他の例えを使うとしたなら、
僕らは杖がないと立つことができないと錯覚している。
と言っても良いかもしれませんね。

どうしても杖がないと立つことができない。おぼつかないと感じていて、
杖が丈夫でしっかりしていないと落ち着かない!って感じですね。

だから、もっとより良い杖を求めて探求するというわけです。

僕らは何かしら掴んでおかないとダメだ!と無条件に思い込んでいるんですよねー。

ですがそんなものがなくてもちゃんと立てるんです。

観念とは物事を考える上での土台

こういった掴みどころや杖がなぜ必要であると感じるのか?といいますと、思考ちゃんがストーリーを作り上げるうえでどうしても必要なのが観念だからです。

観念とは物事を考える上での土台のような役割をするものであり、それがないとストーリーが出来上がらないんですよね。

何が正しく、何が間違いなのか。
何が本当で、何が嘘なのか。
何が安全で、何が危険なのか。

こういったものが必要だというわけです。
これがないと、思考のストーリーって出来上がらないですもんね。

ただ、正しさや間違い、本当や嘘って実在してないんですよ。
実在していないものを作り上げているわけですので、
確固たる観念というものも存在しないんです。

存在しないものを探し求めるから探求は終わらないんです。

探究の終わり

わからないなら、わからないままにしておけば良いんです。
これは、
何かを掴まないでも溺れずに立てるということ。
観念の杖がなくても問題なく立てるということを知ることなんです。

僕らは新しいつかみどころや杖を探し求めるというクセがついているので、
「私がいないから悩みも存在しない」
「過去も未来もなく、今ココしか存在していない」
なんてことを聞いて、良いな!と感じたなら、どうしてもそう思おうとしちゃうんですよね。
思おうとするということは、そういう杖を掴もうとするということでもあります。

この観念の杖を掴むには、心からこの杖を信じるか?信じるに足る確証が欲しくなるわけです。
ですが、それがどうしても得られないので、
そう思おうとするんだけど、どうしてもできない!まだ信じるに足る何かを理解していないのかもしれない。
ってなっちゃうんですよねー。

この話は、新しいつかみどころや杖を得ることによって、思いを変えるのではなく、そもそも、思おうとしなくていいということなんです。

 

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