Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

もうすでに到達していることを思考に納得させなくても良い

はじめに

はーい!
どうも!タクさんです。

僕ら人間って、他の動物に比べてかなり未熟な状態で生まれるじゃないですか。
例えば、馬や牛なんかは、生まれてすぐに立ち上がり歩き出したりしますし、鳥にしたって大体2〜3週間くらいで飛べるようになったりしますが、
人が歩けるようになるのは、一年半くらいかかりますからねー。

例え歩けるようになったとて、まだまだ大人のように生活できるわけではありませんもんね。
そうなるために膨大な訓練と体の成長が必要になるわけです。

まあ、そんな事情もあってなのかは分かりませんが、僕らは生まれてこの方、ずーっと何かを身につけるってことをやり続けているわけです。

だからねー。
なんていうか、ある種のクセなのか、わからないことがあると真っ先にそれを身につけよう!とするわけなんですよね。

そして、どの程度身につけたのか?ということを知りたがりますし、確かめたくなったりするんです。

そして、ゴールまで後どのくらいなのかなー?ってなことを、疑いもなく考えたりするんですよねー。

ただ、このクセの厄介なところは、すでにゴールに到達している場合には逆効果になってしまうことです。

だって、すでにゴールにいますので、どこかに行かなくても良いんですが、どうしてもどこかに向かって進まなきゃ何も始まらない!って感じてしまうんですよね。

このクセがもしかしたら悟り?とか「コレ」に対しての最大の障壁になってるのかもしれませんね。

今に在る

そもそも、ただ今に在れば良いだけなんですが、今に在るというのは「する」ことではありません。
誰も過去や未来に在ることはできないわけですから、すでに今に在るんです。
ただ、僕らの思考では「今」は捉えることはできません。

僕らは何かを捉える際には、見たものや感じたことを別のものに変換しなきゃならないからなんです。
そして、変換する際には、過去の記憶や手に入れた判断を駆使して変換するわけでしてその作業をしているうちにもう「今」では無くなってしまうからなんです。

僕らは今を捉えることはできないわけですが、それでいてずっと「今に在る」んです。
このあたりが思考ちゃんにとってはちょっとしたジレンマになっているのかもしれませんね。

悟りは到達するものではない

よく、こういう話を聞いたり、瞑想などをしてみたりすることで、心が楽になってきたり、思考から離れられたり、思考を置いておけるようになってきたりするんですが、こういった努力も実は全く関係がないんですよね。

この努力を重ねた先にどこかに到達できるというわけではないんです。
なぜなら、もうすでに到達しているからなんです。

ただ僕らのクセとして、ちょっとは「今」とか「コレ」に近づいてきたかな?って確かめたくなってしまうわけでして、なにやら悟りの段階があるってな話があったり、こうなってきたら悟りは近いみたいな話があるわけですが、そういった話も全くあてにならないんです。

そもそも、段階なんて存在してないですからねー。

少しずつ思考が置いておけるようになり、心が楽になってきた!と感じた途端、それを台無しにするような出来事に遭遇し、台無しになっては落ち込む。なんてことを繰り返しても全然意味がないんです。

まるで賽の河原ですね。
石を積み上げても結局鬼に倒されてしまうんです。
だからこそ、あきらめて明け渡すしかないんです。
鬼は明け渡しを促してくれているんです。

ただ今に在ってみる。

だからもう、あなたはすでに完璧であり、すでに到達しているんです。
それを思考ちゃんに認めさせる必要はありません。

思考ちゃんはそれを認めることはできません。

だからといってそれを盲目的に信じるということでもありません。
信じようとすることも思考ちゃんに認めさせようとする行為にすぎず、それだと思考ちゃんの支配下にあることになっちゃいますからねー。

だからもう、わからんままに在ってみるしかないんです。
思考ちゃんが何を騒ごうが、それもそのまんまに在ってみればいいんです。