
はじめに
はいどうもー!
小学四年生にして自転車の手放し運転をマスターしたタクさんです。
皆さんの自転車ライフはいかがでしょうか?
良い大人のみんなは、危ないのでちゃんと自転車のハンドルは握りましょうね!
とはいえ、子供の頃は自転車にしろ走りにしろ、良くコケましたよねー。
道路や砂利でジャリジャリーってなって、よく膝小僧に擦り傷をつけてました。
コケたあと、いっつぅぅぅ。ってなりながら、どんな傷になってる??血は出てるのか?
ってのがやたら気になったりしてねー。
うわぁー。血が出てるやーん。ってなったらもうその日の予定はめちゃくちゃです。
ザリガニを釣りに行くはずだったのが、家に帰ってヨーチンを塗ってもらわなきゃならないですからね。
足もじんじん痛みますし、下手したらその日のザリガニ釣りは諦めなきゃいけないハメになったりして、そりゃもう大変です。
まあそんなふうに、コケて膝小僧を怪我することも大人になった今はなくなってきたのですが、最近は感覚では足が上がってる感覚になっているにも関わらず実際には足が上がってなくてちょっとした段差につまづいてコケそうになる。なんてことが増えております。
皆さんも怪我にはお気をつけください。
この話はよくわからん
さてさて、「私はいない」だとか「時間は存在しない」だとか、「思考は幻想である」みたいな話をここではしているわけですが、まーぶっちゃけ良くわからないですよね。
そして、わからない!というと、それは思考では理解できないものである!
なんて言われちゃったりして、そんなこと言われたらなんでもアリやーん!って感じたりする方もおられるかもしれません。
ただ、言ってる方は別に適当なことを言って煙に巻こうとしているわけじゃないんです。
そもそも、あらゆる全てのことは思考で理解できるものである!っていうこと自体がなんか強力なマインドコントロールであるかのように僕らの中で蔓延っているということなんです。
ま、マインドコントロールなんて言っちゃうと、とても悪くて怖いもののように感じるかもしれませんが、そういうことではなくて、人の持つ習性に近いのかもしれません。
鳥は空を飛べる能力を持ちますが、その代わりに軽くなければならないので骨はスカスカになっているという副作用的な特徴があるわけです。
ぼくらも、思考という強力で便利な能力を持っているが故に、その思考の幻想のストーリーをまるで真実かのように信じ込んでしまうという特徴があり、その副作用として、目の前の真実を幻想のストーリーに置き換えて見てしまうというものがあるという感じのお話なんです。
また、別の副作用として、僕らは常に思考に頼り切ってしまうという特徴もあるんです。
だから、常にあらゆることをわかっておきたいと感じていたりしますし、わからないということは、まだ探究が足りていないという錯覚を持ってしまうということでもあるんですねー。
探究のエネルギー
というわけで、目覚めというのは、そういう錯覚からの目覚めなんです。
別に、思考という能力が消え失せるわけでもなく、またその能力を封印するということでもありません。
なーんにも変わらないんですが、ただ、「思考は思考だ」ということを知るということです。
そして、この話でわからーんってなるのは当然なので、それをわからんままにしておけば良いんです。
そのうち、わかろうとするクセの働きが見えてきたなら、
「お前か!」と、ツッコンでやれば良いんです。
このくせがいわゆる探究のエネルギーですからねー。