Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

川は常にあたらしい

はじめに

はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。

みなさん今や当たり前のようにネットに繋いでいろんなサイトを見たり動画を見たりしてるじゃないですか。

このブログにも訪れてもらってありがとうございますっ!って感じなんですが、
このネットに「サーバー」ってのがあるじゃないですか。

このサーバーってなんだと思いますか?

まあ、サーバーというぐらいだから、日本語に訳すと給仕さんと言ったイメージです。
要求に対して答えてくれる。
これがサーバーなんですよね。

なんかそう聞くと、なんかちょっとイメージが違うと感じる方もおられるかもしれません。

実は僕らってネットに繋がって、いろんなネット上の場所に行ってその中のウェブサイトやサービスを使っているイメージがありますが、実は仕組みとしてはそうではなくて、
給仕さんに依頼をして、依頼された情報を提供してもらっているという感じなんです。

だから、僕らは自分がどこかに行くのではなく、要求をして提供してもらっているんです。

しかも、同じウェブサイトを見ているつもりでも、実は毎回新しく提供してもらってるんですねー。

ちなみにこのサーバーとは普通のコンピューターです。
僕らが使ってるパソコンと基本的には同じです。

個人で使うからパーソナルコンピューターであり、サーバーはサーバーとして使うようにカスタマイズされたコンピューターなんです。

まあ、電源が切れるとサーバーが落ちた状態になり、提供する機能も失ってしまうために、電源がつけっぱなしでも大丈夫なちょっと丈夫なコンピューターが使われる場合が多いって感じなんです。

ま、ここで面白いのは、常に新しい情報を送ってもらっているということですねー。
これって思考もそうなんです。

僕らはいつもの慣れ親しんだ日常を生きているつもりでも、それは思考が常に新しくいつも通りのストーリーを紡いでくれるために、いつもと同じ日常だと錯覚しているだけでしてね。

僕らは常に新しいストーリーを見ていますし、ストーリーを通さずに見たこの世界もまた常に新しいんです。

そう、この世に古いものは存在しないんですよ!あらビックリ!

・命の息吹

いつも同じように見えながら、実は常に新しいものを見せてくれている。
これって、川に似てるかもしれませんねー。

いつもの川辺に腰を下ろして眺めてみると、いつも同じ風景を見せてくれてなんだか落ち着いたりするわけですが、川に流れている水は常に新しい水であって、その流れも常に新しいわけですからね。

ただ僕らの解釈は、目の前の真実をそのまま完全に解釈してくれるわけではなく、大きな括りで解釈しちゃいますので、いつも通りの川に見えてるにすぎないんです。

そして、大きな括りの解釈のせいで、いつも通りの日常だと錯覚したり、それに飽きたりしているわけです。

ですが、その飽きるというのも錯覚でして、ただいつもの道を歩いているあの感触も命に溢れたワクワクするほどの生きてるっ!っていう体験なんですけどね。

思考では、いつも通りのいつもの道、今日もここを歩いて駅に向かう。
みたいな解釈をして、このナマの感覚を見過ごしているんです。

歩きの感触と大地はまさに一体で、大地の息吹を自身の体を通して感じていたりするんです。
そして、それは取っておくことはできず、常に新しいあらゆるイノチの息吹を感じているんです。
このイノチの息吹こそ喜びそのものなんです。

・川に流してあげましょう

目の前の川は常に新しい川であり、あなたの思考のストーリーもまた常に新しいストーリーであり、感じている感触もまた常にまっさらな息吹です。
ですので、昨日の思考のストーリーはもう消え失せてますし、さっきの思考ももうないんです。未来の不安も過去の後悔も、その時はそう感じたとしても、一瞬先にはもう消えているんです。
文字通り、川に流れているんです。
ただ習慣と癖で、似たような解釈を常に新しく作っているだけだったんです。

いつも同じ思考に苦しめられるというのなら、それは執着です。
もう消えてなくなったものをまた新たに繰り返し作っては味わっているんです。
そんな執着も文字通り川に流してあげれば良いかもですねー。

 

 

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