Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

手放すものがないってどういうこと?

はじめに

はーい!
タクさんです。

どうですか?皆さん。
最近、ドカンと泣いてます?

僕は、子供の頃のような
「うぎゃぁーーー!」って泣き方は、
大人になってから全然やってないです。

あの、「うぎゃー!」って泣くの、結構楽しかったりしますよねー。

ああやって泣いてる時って、
最初は「うぎゃー!」って純粋な気持ちで泣いてるんですが、
徐々に、正気に戻ってくることに気づいてくるんですよね。

「あ、自分は今、めっちゃでっかい声で泣いてる・・・」

ってな感じでね。

すると、どんどん周りの景色も見えてきて、
「さて、いつまで泣こうか・・・」
ってなってくるんです。

そしてそのうち収まってきたりするんですよねー。

なんか、そんな経験ありませんか?

いわゆる、「素に戻る」ってやつですね。
この素とは、生まれたまんまの何も装わない性質といった感じの意味合いです。

そこに戻ってくるんですよね。

・素に戻る

いわゆる「気づき」というのも、「素に戻る」感覚に近いんじゃないかなーって思っています。
僕らの究極の素の状態。これがいわゆる「コレ」ってやつですからねー。

そして、あれこれと思考の世界に巻き込まれているのは、「素」ではなく、
心で「うぎゃーーー!」って泣いてる状態みたいなものなんですよね。

あらゆる思考は、判断材料をもとに構成されますが、
生まれたまんまの「素」の状態では、そんな判断材料は持っていませんでした。
そして、「持つ」とか「持たない」という判断材料すら持ってなかったんですよね。

そのうち僕らは、あらゆることを知ったり、聞いたりするうちに、いろんな判断材料を持つようになったんです。

そして、より正しい判断材料を求めて探求していくわけですね。

ただこれ、ホントーに持ったわけじゃないんです。
手に入れてないんですよね。

単純に、「そうみなした」だけなんです。

・手放すものがないってどういうこと?

おままごとってね。
いろんなことを「みなして」いますよね。

泥の団子をご飯とみなしたり、
お父さん役やお母さん役を作ってそうみなしたりしてますもんね。

僕らの思考の世界もまた、全て「みなし」で構成されているわけです。

「みなし」と聞くと、それは「嘘」であり正しくないって感じちゃうかもしれませんが、
本当とか嘘とか、正しいとか間違いということではありません。

思考ちゃんは、嘘や本当、正しいや間違いにとても敏感だから、
そうみなしただけなんだったら、本当はどこにあるんだ??

地球は丸いとみなしているが、それが間違ってるとでも言いたいのか?

って、瞬時に反論しだしたりするわけですが、そういうことでもないんです。

嘘とか本当とか、正しいとか間違いというのも、単なる分離の概念に過ぎないんです。

そして、そんな概念も「素」の状態では持ってないし、みなしてないんです。

何も持ってない空っぽ。
それが本来の姿なんです。

そんな空っぽな僕らは、いろんなことを持ったとみなしているわけなんですねー。

手放すとか捨てる必要がないというのもそういうことなんです。

僕らは自分の持っているエゴや思い込みを手放さなきゃならないってついつい思い込んだりしちゃいますが、そもそも持っていません。
持っていないものを手放すのも、そう「みなす」だけの話なんです。

エゴを持つのも「みなし」なら、手放すのも「みなし」なので、これもまた一人相撲みたいなものなんです。

その「みなし」の先に何かが待っているなんてことはありませんよね?

いわゆる「目覚め」といわれているのは、どこかにあるのではなく、
ただこの「みなし」に気づいて素に戻るだけの話なんです。

そうなったからといって「みなし」の技術が失われるわけではありません。
ただ、「私」というものもまた「みなしている」の一つだったと知るだけなんです。

 

 

 

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