はじめに
はいどうもー!
おはようございます。
タクさんです。
いやー、最近ホントにペンで何かを書く機会が減ってきましたねー。
iPadとかでも手書きでささっとメモが取れちゃいますし、
その後データで残せるから便利だったりしますもんねー。
ただ僕は結構文房具も好きでしてねぇ。
お気に入りのシャーペンがありますので、ノートとペンもいまだに使っています。
使われなくなった道具にも良いところってあるもんですよね。
ところが先日、とある事務やりとりをしてたのですが、
先方がファックスで送ってくれ!と言ってきたのでそれは流石に困るので言わせてもらいました。
「いやー、流石にいまだにファックスでやりとりなんて出来ませんヨォーっ!」てねー。
ファックスだけでやりとりだなんてねぇ。
今更、買いに行くのもだるいですし、そのために電話番号も取らなきゃいけないなんてねぇ。
「せめてメールでやりとりさせてください!」って怒ったら折れてくれました。
そういえば、昔は電話の権利書なんてものもありましたよね。
結構高くてびっくりしました。
・ペンって別に強くないよね。
さて、そんなノートとペンですが、僕らって何かを書くときにいちいちペンにお伺いなんてたてませんよね?
「あのぉー、こんなことを書こうと思ってるんですけど書いて良いっすか?」
とペンに聞くなんて変な話ですもんね。
ペンは剣よりも強し!
なんて言葉もありますが、実際にペンが強いわけじゃないですもんねー。
だからペン様にいちいちお伺いを立てなくても良いし、気を使わなくても良いんです。
そんなことをしたら、自分が窮屈になるだけですからねー。
ま、とはいえ、ペンに気を遣っている人なんていないでしょうから
「何を言ってるんだ?」
って話になるかもしれませんが、
実は僕らも、これに似たことをしてわざわざ窮屈な思いに苦しんでいる。
なんてことがあるんですよー。
「んなバカな!」
って感じるかもしれませんが、結構多くの人がペンに気を使うのと同じようなことをしてるんですよね。
・思考ちゃんに気を使う必要はない
それがね。
思考ちゃんに気を使う。
ということなんです。
なにかをやったり、何かをやろうと思ったりしたときに、
いちいち思考ちゃんにお伺いを立てたりするんですよね。
まあ、やろうとするときに相談するのは、百歩譲ってまあ良いとして、
すでにやったことに対してでさえ、思考ちゃんにお伺いを立てて、
思考ちゃんに認めてもらえなければ、やったことを後悔したりしてるんです。
終わったことなのにですよ。
さらには、今後は後悔のないように行動していかなければならない!
ってな具合でね。
未来に対してまで思考ちゃんに気を使うなんて、
それは流石にやりすぎだと思うんですよねー。
これからやろうとすることでも、
「それは正しいのか?」から始まって、
「それに意味はあるのか?」
「それに何か利益はあるのか?」
ってねー。
正しさや意味や利益なんてのは、思考の中だけにしかない幻想なのに、
その幻想にちゃんと沿うのか?を気にしたりするんですよね。
それもまた、気の使い過ぎってもんです。
・生きることに思考の証明を求めるのはあべこべ
もっと酷いのもあるんですよ。
それはね。
僕らの人生や生きることにたいしても、なにかしらの思考の証明を求めていたりすることなんです。
生きることの意義はなんだろう?意味はなんだろう
人はなんのために生きているのか?
とかね。
こんなものに思考の証明なんて必要あるわけないじゃないですか。
道具ですよ道具。もっというと道具ですらない便利機能みたいなものですからねぇ。
思考ちゃんはなんでも思考的解釈に置き換えたいからあれこれと理由を求めたがるかもしれませんが、思考的解釈に置き換えられるとその実相は失われるんです。
そもそも僕らはただ在るという存在です。
その存在に一切の理由も証明も解釈も必要ないんです。
そこから生じた理由も証明も解釈も実装とはかけ離れた形になるんです。
それをまるで真実で在るかのように扱わなくても良いんですよね。