はじめに
はーい。
どうもおはようございます。
好きなジブリ作品が時期によって変わってしまうタクさんです。
とはいえねー。
「耳をすませば」はお気に入りベスト3に入るかなー。
って感じがします。
皆さんは最近、耳をすましておられますでしょうか?
そんな「耳をすます」なんですけどね。
耳をすます時って皆さんどうされてますか?
これって、何かをするというよりはやっていることをやめていくって感じじゃないでしょうか?
歌を歌いながらだとできませんし、何か作業をしながらってのもちょっと難しいですもんねぇ。
作業をしていたならその手を止めて、歌を歌っていたのなら歌うのをやめて、
何か食べてたのだとしたら食べるのを一旦やめて、
地団駄を踏んでいたんだとしたなら、一旦踏むのをやめる。
耳を澄ます時ってだいたいそういう感じにやっていることをやめていきますよね?
そして、呼吸を整え、目を閉じるパターンもあるかもしれません。
そうすることによって、気づいていなかった音に気づいていくって感じですもんねー。
そして、この音は気づいていなかっただけで聞こえてはいたはずなんですよね。
ただ別のことを気にしていたので見逃していただけだということです。
ここでお話ししている「コレ」とか「アレ」のお話も同じようなことで、
ずっとあるんだけど、思考の方を気にしていたことによって、気づいていなかっただけということなんです。
つまり、自分が何かを成し遂げるというような話ではなく、もともとあったものに改めて気づくという感じなんです。
ーー
・気づきにくい思考
そんなわけですので、やたらと思考を置いておきましょうねー。とか言われているわけなんですが、あれこれと悩んでいる時って、コレは思考だ!っていうのはわかりやすいと思うんですよ。
ですが、たとえば、
飴をなめてたとするじゃないですか。
そして、
「甘酸っぱくて、おいしーい!」って感じたとします。
でも、これも思考なんですよねー。
また、
「私は飴を舐めている。」ってね。
これは行為だから思考じゃないよね!って感じるかもしれませんが、
これもまた思考なんです。
「は??現に今私が飴をなめてるじゃないか。これは事実じゃないか!」
って思うかもしれません。
だからこそ、この甘酸っぱさを感じているわけですからね。
・解釈と事実の違い
「私が飴をなめていて、その味を感じている。」
これってね。解釈なんです。
実際に起こっていることは、この味わいの感覚だけなんですよね。
そして、この味わいの感覚には、私と飴の区別なんて存在していないんです。
耳をすますかのように、この精妙な感覚を感じてみると、
この味わいと自分自身は一切分離しておらず、完全な一体として感じられるはずです。
これは味わいだけではなく、見ているもの。聞いているもの。感じていること。
コレらもぜーんぶそうなんですよね。
そこに私との分離は一切ないんです。
ただこの感覚を一つの行為として訳し、行為者と対象とを分けたうえで、
「私は飴をなめている」という翻訳をしているという感じなんですよねー。
この翻訳とは、生の目の前の事実を、思考のストーリーに組み替える上での翻訳なんです。
ただ、この翻訳は事実を事実のまま表現するものじゃなく、思考のストーリーに変換するものですので、変換されたストーリーと事実は別物になっちゃうんですよねー。