Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

探すほどに終わらない探究の旅

はじめに

はいどおもー!
おはようございます。
タクさんです。

「灯台下暗し」
なんて言葉がありますよね。
意味としては皆さんご存知かと思いますが、
「人は身近なことは結構気づかないよね」といった意味です。灯台は遠くを照らすことはできても自分の足元は照らせませんからねぇ。
僕らも探し物をするときは、ココ以外のどこかしか探せないんです。
だって、ココにはないから探すわけですもんね。
でもこの「ココにはない」という思い込みが間違ってる時って結構あるんですよねー。

どこかを照らす灯台は、自身を照らすことはできないんです。
これは、僕らにも当てはまることなんですねー。

探究にしたってそうですよね。
何年も探究に勤しんできて、それでも見つからずにいるともう良い加減疲れてきますもんね。
でも、この探究に疲れてきたというのは福音なんです。
良い兆候なんです。

疲れてきてあきらめたくなったのなら、それはあきらかになる一歩手前でもあるわけです。

あきらめるはあきらかになる。というパラドックスがあるわけですね。

ですが、そう聞くと、
「だったら最初っから探究なんかしなかったら良かったんじゃーん。」とか、
「探求をやめたら見つかるのね!」
って思ったりしちゃうかもしれませんけどねー。

それもまた、典型的な思考ちゃんの解釈なんですよね。

なので、何かを見つけるために頑張って探求しないようにするっていうのもこれまた探求なわけなんです。

こういったややこしいパラドックスが生じてしまうのも思考ちゃんというのは、こうだったらこうしよう。間違ってるのならやり方を変えようっていうね。
いわゆる、原因と結果という法則を前提として働きますからねー。

そういうことじゃないのよーって話なんですよね。

 

・探すほどに終わらない探究の旅

探しても見つからない。
さらには探すのをやめようとしてもそれも探してることになるんですよー!

なんて言われたらね。
「だったらどうすれば良いんですかー!」
って言いたくなるかもしれません。

でもね。
そもそも、なんで探さなきゃいけないと思っているのか?
もしかしたら、この最初の段階でボタンをかけちがっているのではないか?
っていうことなんです。

探すからには足りないパーツがあるということですよねぇ?
この足りないということ自体が間違ってるかもしれないよ!ということなんです。

でも、至福だとも幸せだとも思えないし、苦悩も起こるし、、、。
って感じられるかもしれません。

ですが、そもそもなんですけどね。
至福だと思えないだとか幸せだと思えないっていうのは、思考がそう思ってないということじゃないですか。
だから、思考にそう思ってもらえるような材料を探しているということになりますよねぇ。

また、苦悩にしたってそれも思考によって起こってることなんですよね。

さらには、そうなってるのは何かが自分には足りないと思っているわけで、だからその足りないピースを探そうとしているわけですからねー。

・思考は正常

つまりこれって全部思考なんです。
ほら、思考っていろんなことを考えるじゃないですか。

厳かな場所でもヤラシーこと考えたり、意地悪な思いが湧いてきたり、
誰かを批判したり、はたまた自分だけは偉い!って思い込んだりしてねー。

それでいて、自分は決定的に何かが足りない!って思ったりもする。

これね。
正常なんですよ。
そういうものなんです。そういう風に出来ているわけです。

許せないっ!っていう思いも湧いてきますよね。
これも正常なんです。

許せない思いが湧いてきていたとしても、それも含めて許されているんですねー。

正常なことを間違っているとしてるところからボタンの掛け違いがあったんです。

考えている内容が正常だということではないですよ。
思考はそうやってあれこれを分離して正しいとか間違いといった判断をする。
このこと自体が正常だということです。

そして、そもそも正しいとか間違いというのはその思考の中にしかないということなんです。

そして、そもそも、思考って私ではないんですよね。つまり「自分」ではないんです。
ただ、仮の「自分」という概念が思考の中に生じているだけだったんですねー。

じゃあ、もう思考がどのように起こってもそれで良いじゃないですか。
この発見がねー、「あ、このまんまでよかったんだ!」という発見につながるんです。

 

 

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