Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

お気楽さは真理のサイン

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
今になって地球平面説がまた盛り上がっていると聞いて、
やっぱり人間って面白いなぁ〜と感じているタクさんです。

よく、こういった非二元のお話でも、
実はすんごく当たり前で、地球は丸い!というような話なんですよー。
ただ、当たり前過ぎることで見逃しちゃってるんです。

みたいなね。
地球は丸いを例え話に使うことってあるんですが、
平面説が盛り上がっちゃうとこの例えも微妙になるなぁと感じています。

まあ僕らって、いろんな考え方があるじゃないですか。
だからこそ、そういった多様性が面白いわけなんですけどねー。

ただ、考えが違うことを気にする方もおられますよねぇ。
そうなっちゃうと考えは同じでなければ仲間になれない!みたいなね。
そんな感覚にもなっちゃって、考えを押し付けるようなことにもなっちゃいますよね。

なんで自分の考えがわからないんだ!
私の考えがわからないやつはバカだ!

って感じちゃったりしてね。

そういう押し付けはやっぱり勘弁願いたいですかねー。
水を差すつもりはないんですけどね。

考えなんて、野球が好きか?サッカーが好きか?くらいの話ですもんね。
またはチョコ味が好きか?いちご味が好きか?くらいの話でしてね。

どんな考えも同様に妄想みたいなものですので、
好きな妄想で遊べばいいんです。

 

・考えなんて違ってよし

アメリカ人が英語を使うのになんの不都合もありませんし、日本人が日本語を使うのもなんら問題はありませんよね?
そこに異論を唱えたい!という方はあまりおられないかと思います。
言語が違うのに対してはなんの問題もなくもちろん腹も立たないのに、
人間同士、考え方がちょっと違うだけで時にものすごーく腹が立ったりするのって
なんか変ですよね。

考え方なんて違って全然いいですし、違うからこそ面白いわけですからねー。

・正義や悪という分離

そんな考え方ですが、違いが気になってしまう場合の一つとして、いわゆる「正義」という概念が、どうも僕らを変な方向に導くことになっているのかもしれません。

僕らって、いろんな考え方を今まで習得してきたわけですが、その際に、これこそが正しい考え方である!っていうね。妙な観念も一緒に掴み取ってしまってたりするんです。

自分が掴み取った考え方が正義なんだとすると、自分と違う考え方は悪であったり、悪とまでは言わないけれど、正しい考えを知らない未熟さとして受け取ったりしちゃうんですよね。

そうなると、趣味の違う他人に考え方を強制しようとしたりするわけです。

つまり、自分の中に正義感が芽生え、自分以外の考えを悪だとしちゃってる時ってもうかなり思考の幻想にハマり込んでいると疑った方がいいかもしれません。

とくに「お気楽さ」が消え失せてしまっていると感じたのなら要注意です。

・お気楽さは真理のサイン

そもそも、いわゆる真理とは「お気楽さ」そのものでもあったりしますのでねー。
自分の中にお気楽さが消え失せ、深刻さが強く帯びているのなら、ちょっと一休みが必要な時なのかもしれません。
深刻さは思考のストーリーの中にしか存在しませんからねぇ。
あ、何かしらの夢に夢中になってるというサインでもあります。

もちろん、深刻さはゲームを楽しむ大いなるスパイスではあります。

ただし、自分を足りないものとして蔑んだり、そのことでツラく感じちゃうほどまでに深刻になる必要はありません。

また、自分じゃなく他人を蔑んだりしているのも、結局は自分の中の他人を蔑むことになっちゃってますのでねー。実質自分に刃が向いてたりするのでそれも自分を蔑むことに繋がっちゃったりします。

そして、そこにお気楽さが感じられないのだとすれば、それは思考の幻想という夢を見ているというサインになりますので、一旦立ち止まって、ゆったりと落ち着いてみるのがオススメです。

 

 

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