
はじめに
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
子供って電車に乗ってると窓に映る風景をみたがりますよねー。
ま、僕は今でもみるの好きなんですけどね。
でもやっぱり、もう子供の頃の見方はできなくなってきています。
子供の頃の見方はどんな感じだったかというと、
自分は止まっていて、風景の方が動いているという感覚です。
この不思議な感覚がどうにも好きだったんですけどねー。
やはり大人になってくると、どうしても邪念が邪魔をして素直な見方がどうしても失われてしまったりするわけです。
実際のところ僕ら大人は自分が乗っている電車が動いているを知っているわけですからそのように見るじゃないですか。
でもこれって実は素直な見方じゃないんですよね。
これは、「自分が電車に乗って動いている」という思考を通して世界を見てしまっているからなんです。
この思考が邪魔をして素直にみれなくなっているというわけです。
そんな思考を通さずに、ちゃんと素直に見るのなら、景色の方が動いて見えるのが自然な見え方なんです。
だって、実際に自分は動いていなくて景色の方が動いているんですもんね。
これは、窓に映る木々が風に揺れている姿を見る時も同じです。
ちゃんと素直に見ると、木がダンスしているように見えるんです。
風で木が揺れているという思いが、せっかくの木々のダンスを味気のない風景に変えちゃったりするんです。
ま、そのように思いが世界の見え方や捉え方を変えちゃってることに気づき出すと、
今度は電車に乗ったり風景を見てる際に、勝手に景色が動いたり木々がものすごいダンスをしてたりしてるのに、みんな普通の顔して見過ごしてるぅぅ。ってね。
逆に面白くなったりするんですが、あまりこの辺のことを面白がってると変な奴と思われるかもしれないのでほどほどにしておきましょうね。
・悟りは手に入れるものじゃ無い
ま、いわゆる気づきとはそんな感じで、子供の頃やそれ以前に感じていた素直な世界との関係性を思い出すといった感じなんです。
悟りとか目覚めというのもなにかしらを手に入れるものでもなく、達成することでもなく、元々気づいていたんだけど、いつの間にか思考の世界で上書きされてしまっていたことに気づくということなんです。
だからといって、思考の世界を失うというわけじゃなくて、それはそれでちゃんと知ってるよ、ということなんです。
車窓の景色は、電車が動いているから移り変わることを知りながら、でも素直な見方をすれば動いているのは景色の方だよね。ということも感じている。
この素直な感覚を改めて思い出すってかんじなんです。
だからほんとはみんな知ってることであって、ただ見逃されているだけなんです。
子供から大人になるに従って、ぼくらは成長したとか進歩したって思い込んじゃってるじゃないですか。
歴史にしたってそうですよね。昔より今の方が進歩しているって感じたりしますよね。
でも実際のところ、進化とか進歩って無いんですよねー。思考が作り上げた幻想なんです。
ただただ、右の積み木を左に動かしたみたいなことで、部分を切り取ると変化したといえなくも無いんですが、それも部分を切り取った場合の話に過ぎないっていうね。
・いまここしかない
人生にしても、つい僕らって人生はどこかに向かって進んでいるといったような錯覚を持ちがちなんですが、別にどこにも向かってないし進んでもいないんですよねー。
ただ、そういった解釈を加えているだけなんです。
ですが、そんな解釈を加えているせいで、どうしても今ここにリラックスしてみましょうといった話は、山あり谷ありの人生を進む中で、一時の休憩場所、リラックスして英気を養い、いつか幸福を掴むために、また人生の大いなる旅を続けていく。
そんなひと時の休憩のように感じてしまったりするパターンもあったりしてねー。
幸福を探す旅にしてしまうことで、今はまだその幸福を手に入れていないという錯覚を作り上げるというわけです。
でも、人生はどこにも進んでいないんです。
だから、進むためのものじゃなく、ココに在って味わうものなんですよねー。