はじめに
はいどうもー!
おはようございます。
学生時代はレンタルビデオ店でバイトをしていたタクさんです。
いやー、にしても今はもうビデオレンタルという文化がほぼなくなってしまいましたねー。
皆さんはレンタル屋さんを利用されていたりしますでしょうか?
さて、そんな学生時代に観た印象に残っている映画の一つで「ユージュアルサスペクツ」という映画があったんです。
いわゆるサスペンスもの?なんだと思うんですが、細かい内容は忘れてしまったんですが、なんでも物語のキーとなるマフィアの大物の正体は誰なのか??みたいな映画でね。
そのマフィアの大物が実は映画の冒頭からいたモブキャラみたいなおっさんだった!みたいな映画で、最後にそれがわかるんですが、最後になるまで絶対にわからん!みたいなストーリーだったんです。
あれやこれやと映画の途中もこの大物は誰なんだ?と考えながら見るわけですが、「ずっとだまされてたんかーい!んなもんわかるかーい!」
ってツッコミたくなる映画だったんですが、それなりに面白かったです。
そういえば、松本人志さんの「大日本人」や「頭頭(とうず)」という映画もラストに全部ぶち壊すオチが来るというストーリーでしたよねー。
「なんじゃい!最初っからだまされとったんかーい!」ってパターンです。
この「最初からダマされとったんかーい!」という感覚って、非二元のお話も似てるなーと感じています。
映画と違うのは、ダマしていたのは自分だった!という衝撃ですね。
この衝撃は映画を超えますよねー。
・幻想が勝手に向こうからやってきてくれるコツ
さて、このダマしていたのは自分だった!というのはね。
厳密には自分ではなく、自分だと思っていたモノにダマされていたという感じなんですが、この自分だと思っていたモノ。
これがまさに思考ちゃんなんです。
ま、思考ちゃんの言い分としては、ダマそうとしてダマしていたわけじゃなく思考ちゃんは淡々と思考ちゃんのお仕事をしていただけということなんですけどね。
思考ちゃんはいわゆる幻想のようなイメージを駆使して世界観を作るわけですが、この世界観に僕らはどっぷりとハマっていたわけなんです。
この幻想ってなかなか気づきにくいんですが、実は何が幻想なのかを向こうから教えてくれるというコツがあるんです。
それがね。
「じっとしてみよう」ということです。
探し求めるのをやめて、ただじっとしてみるんです。
するとね。
幻想が勝手に向こうからやってきてくれるんです。
例えば、探し求めるのをやめてただじっとしてみたとき、
「じっとしていても現状は変わらないじゃないかー!現状を変えなければ何も解決しないじゃないかー!」
って思考ちゃんが言ってきたとします。
まさにそれが幻想なんです。
さらにその「今の現状」としているもの。
これもまた幻想なんですよね。
・じっとしてみよう
ほえー、これって幻想だったんだー!って感じていると、今度は、
「これが幻想なんだとすると何が本当なんだ?何が真実なんだ?」
という思いが湧いてくるかもしれません。
この問いの元には、真実と嘘がこの世には存在する。という思い込みがあるわけなんですが、これもまた幻想なんです。
真実と嘘というものもないんですよねー。
そんな感じで向こうからあれやこれやと幻想の方から「真実やで!」みたいな顔をしてやってきてくれるんです。
でもこの真実っぽい顔にコロッと流されないようにただじっとしていると、あれも幻想。これも幻想といったようにあれこれと向こうからやってきてくれるんです。
僕らはそれらを掴もうとせず、ただじっとしていたらいいんです。
すると、思考はありとあらゆるストーリーを作っては危機感を演出しているという様子も見て取れるかと思います。
それでもじっとしていると、思考ちゃんも次第に黙り始めるんです。
そして、沈黙がやってきます。
「この沈黙って退屈だよー」という幻想もやってくるかもしれませんけどね。
それでもじっとしていると、「ただ今ここに在るだけ」というなんでもない今が目覚めてくれるんです。
・イマココの目覚め
目覚めていくうちに、
「なーんだ!探し求めるから見つからなかったんだー!」
「コレはずっとここにあったんだー!」
ということを知るんです。
僕らが探し求めていた幸福や至福というものも、一切の条件を必要としていなかったんです。
幸福や至福には条件があるという幻想を掴み取っていただけだったんですねー。
そしてまた、思考を自分だと錯覚し、本来の自分を見失っていたこともまた、探し求めていたから見つからなかったということを知るんです。
わかってみたら単純で簡単すぎることだったんですねー。
ずっと目の前に今ここに在ったのに見つからなかったのも、今でもここでもない架空のどこかを見ていたから見つからなかったんです。