Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ただ、今に在る

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

全ては「今」「ココ」にあります。
つまり「今」「ココ」以外にはなんにも無い。

なーんてことをよくここでも言ってたりするんですけどね。

ま、これ、「今」しか無いってことも「ココ」しか無いってことも確認してみるとその通りなんですよねー。

ですが、僕らはこの今とココを置き去りにして、過去に注目してしまうんです。

そして、この過去への注目が今を見失わせているんです。

この過去とはまさに記憶のことです。

僕らは何かを見ても瞬時にそれを過去のものに置き換えてしまうんです。

例えば、朝顔の花を見たなら、瞬時にそれはこれは「アサガオ」だ!と
今までもみたことがある、あのアサガオだ!と
過去の記憶にしまってある知識に置き換えてしまうんです。

ですが、今みた朝顔は今のこの瞬間にしか存在しない全く持って新しいものなんですよね〜。

子供の頃は知識が少ないので、この過去への置き換えという邪魔が入りにくいんです。
だから、今に自然とあることができ、あらゆるものが新鮮で新しく見えていたんですが、
知識が増えるに従って、僕らは目の前の本来の新鮮さを見失ってしまっているんです。

 

全ては常に新しい

私というのも記憶です。
また、私の中にある誰か?
それが、田中さんであろうが宮本さんであろうが、
それもまた、記憶の中の誰かなんです。

「今」をこの記憶に置き換えることによって、僕らは目の前のそのまんまの現象を見失い、
過去の記憶に生きてしまっているんです。

また僕らは、脅威ではない記憶を取るに足らないものとしてしまうため、
目の前の新鮮で真新しい今を、手垢の付いた退屈な今に置き換えてしまうんですよね〜。

なんでも無い平凡な1日にしてしまうんです。

そこで刺激を求めようとすると、常に新しさを求め続けなければならず、
得れば得るほどにあらゆることが退屈になってしまうことにもなるんです。

未来と過去は同じもの

また、未来というのもまた過去と同じです。
僕らは未来を過去の類推でしか判断できません。

だから、今後のことをイメージするにも、結局は過去を参照するしか無いんです。

そうなると、今が平凡で退屈だとするなら、それが未来永劫続いていってしまう。
なんて考えてしまったりもするんですよね〜。

そして、また新しい何かを探求しだすんです。

これだとまるで、退屈さという呪いにかかってしまっているようなもので、
そうなればなるほど、「今」は置き去りになってしまうんです。

私も記憶によって作られている

私というものも、これまた記憶によって作られております。
そして、その他様々な記憶によって作られたものを組み合わせてストーリーが展開されるんです。
全てのパーツが、過去由来の記憶によって作られますので、ストーリーもまた過去をみていることになるのです。
そして、「今」が見逃されるわけですね。

僕らが「今」起こっていると思っているあらゆるストーリーもすべて過去なんですよね。
そして、過去は実際には存在しないものなんです。
だから幻想なんです。

そして、この作られた「私」は同じく作られたあらゆる「その他」との比較にさらされるわけです。
そして、その比較に打ち勝つ「私」を作ろうと探求するんですね。

そして、そこに夢中になるほどに「今」はまた置き去りになるんです。

ただ、今に在る

もちろん、記憶は便利な機能ですのでね。
必要な時に参照すれば良いんですけどね。
四六時中記憶の中に入り込まなくて良いんです。
必要のないときは記憶の参照はなるべく取り払ってしまって良いんです。
するとちゃんと「今」が目の前に広がってきてくれます。
この「今」を掴み取ろうとするとまた、記憶という過去がやってきます。
僕らは何かを掴み取る時に、過去を持ち出し、過去のなにかに当てはめようとするからなんです。

なんでも無い「今」は、掴み取らずにただ在る「今」なんです。

 

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