Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ひらめきと悟り

はじめに

ひらめいたっ!
という言葉を聞くと、つい「あばれはっちゃく」を思い出してしまう、
おっさんのタクさんです。

みなさん。
おはようございます。

ま、だれしも、
「あ!ひらめいた!」
ってな時がありますよね。

喉の奥に刺さった魚の骨がすっと抜けるかのような、
あー!なるほどー!ってやつの瞬間ですね。

この「あ!」っていうね。
いわゆるわかった感じ。

ヒラメキがピカーンッと光ったその光ったところ。
コレがね〜。
いわゆる「コレ」なんですわ。

そのあと、あれこれと思考がついてくるんですけどね。

これはもうひらめきを解釈したものになってしまいます。
そこはもう思考なんです。

でもこの「あ!」の瞬間。
そこって思考じゃないですよね?
この「あ!」の瞬間はわかってるんですけど、
思考でわかっているのではないんですが、ちゃんとわかっているんですよね〜。

この「あ!」が起きた時は、その軽さの中に、
ただ在ってみれば良いんです。
思考を追いかけることなくね。

そこでもう、全ては完結しているんですよね。

 

それの瞬間

きっとその「あ!」の後も、

「でもこれって何がわかったの?」
「本当にわかったと言えるの?」
ってあれこれと思考が言ってくるんですけどね。

そんな思考に耳を貸さなくても良いんです。
なぜなら、思考の中に真実は無いからなんです。

この「あ!」の瞬間は、何かがわかった瞬間であると同時に、
あらゆる思考が落ちた瞬間でもあるんです。

なので、この「あ!」がおこったら、
ただただ、一切の理由を求めずに、そこに在ったら良いんです。

思考の抵抗

思考ってのは結局、今のあるがままを否定してくる働きをするんです。
「あ!」という瞬間、絶対的にわかったはずなんですが、
このわかったをもすぐさま否定してくるんですよねー。

そして、
「なにがわかったの?」
と聞いてくるんです。

コレに答えようとした瞬間、
「あれ?よく考えたらなにもわかってないわ・・・」

ってなるんですよね〜。

苦しみとは戦わない

苦悩や苦しみにしてもそうです。
これもまた、今のあるがままを否定してくる働きをしてくるんです。
そして、この苦しみと戦っている間、ずっとこの苦しみの中で生きなきゃならなくなる。
っていうことにもなっちゃうんですよね〜。

苦悩があるのなら、苦しみがあるのなら、
それもまたひとつの「今の」あるがままなんです。

その苦しみもまたあるがままにさせておいてあげる。
その受け入れが苦しみとの戦いを終わらせてくれるんです。

その時も思考は逆らってきます。
「受け入れてしまったら、その苦しみは一生消えないよ!」
って言ってきたりするんですけどね〜。

逆なんです。
戦うから消えないんです。

ま、一応言っておくとこれは病気になっても治療をするな!
ってことじゃないですからね。

ちゃんと治療をしましょうね。
やれることは淡々とやる。
それだけなんです。

苦しみは自作自演

苦しみもそこにいさせてあげる。
あるがままにしておいてあげる。

そのときはじめて、
その苦しみもまた自作自演だったことに気づくんです。
その気付きとともに、きっと「あ!」がやってきます。

そしたら、その軽さの中にただ在ってみれば良いんです。

 

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