Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ええがな!精神と器の話

はじめに

へいっ!
どうもおはようございます。
タクさんです。

器量とか度量って言葉があるじゃないですか。

器量が良い!とは、才能がある!徳がある!とか、
あとは、べっぴんさん!見た目が良い!

みたいな、そんな意味がありますよね。

度量も同じような意味で、
心が広い!なんて感じで使われます。

器量も度量も、何を表しているか?
っていうと、器の大きさみたいなものですよね〜。

あの人は器が大きいわ〜!
なんて言われると、きっと優しくて包容力があって、
心が広い人なんだろうなぁ〜。

って感じたりしますしね。

そしてみなさんも、器の大きな人物になりたーい。
って思うかもしれません。

この器ってなんなんでしょうか??
ってことなんですけどね?

多分、器の大きな人ってね。
自分の器のことなんて考えてないんじゃないかな〜。
って思ったりするんですよ。

むしろ、器が小さい!って言われる人ほど、
器ってものにこだわってる人なんじゃないのかしら?

なんてねー。
そんなふうに思いました。

 

ええがな精神と器

では、この器の大きさってね。
なんなのか?というと、

「ええがな精神」なんじゃないのか?
って思うんです。

ええがな精神とは何か?といいますと、

「ま、ええがな!」ですませられる。
ということです。

まーほら、いろいろなことって起こるじゃないですか。

それに対して、
「ええがな!ええがな!」
ですませられるってことです。

このええがな!枠が大きいほど、器がでかいってことなんじゃないか?
って思うんですよね。

ええがな!という許し

ええがな!とは許しですよね。

人には、色んな思いがあり、いろんな考えがあるもんです。
それはもう当たり前なんです。

そして、自分にも色んな思いがありいろんな考えがあるわけです。

でもね。
みんなに色んな思いがあり、いろんな考えがあるということは、
もちろんのことながら、自分の思いに反する思いがある人も、
考えが違う人がいることも、当たり前なんですよね。

むしろ、みんな同じ考えであるなんてことがありえないわけです。

だから、考えが違ってもいいし、自分の思いに反する人がいてもそれで良いわけです。

だって、そうなってるんですし、それが当たり前ですからね〜。

空想の好き嫌いに目くじらたててもしょうがない

そもそも、思いも考えも空想の類いじゃないですか。
だったら、どんな思いだって、どんな考えだってあっていいんですよね。

「へぇ〜。あなたは今、そういう思いを採用してるんだね。」
で終わりなんです。

「私は今、こういう考えを採用しているよ!」
「あなたとはちょっと違うけど、別に違ってもいいよね!」

ってことなんです。

そもそも、思いや考えに、正しいも間違いもありませんし、
よもや、正義や悪なんてものも存在していません。

赤が正義で、青が悪なんてことはなく、赤も青も単なる色にすぎませんよね。
考えや思いだって、色と同じなんです。

私は水色が好き!あの人は赤が好き!
好きな色が違っても全然良し!なんです。

思いも考えも、所詮幻想にすぎない

にもかかわらず、自分の考えこそが正しいんだ!
この考えを採用しない人は、それがわからない愚かな人であり、
この考えに反する人は悪なんだ!
ってなっちゃうと、思考や考えという幻想に取り込まれてしまうことになるわけです。

正義や悪っていう概念は、思考や考えに取り込まれる大きなフックなのかもしれませんね〜。

なので、まず、どんな考えや思いが浮かんでも、
「ええがな!」
とひとこと言ってみたらいいのかもしれません。

「ええわけ無いやろっ!」ってすかさず思考は言ってくるかもしれませんが、
それもまた、「ええがな!」なんです。

どんな思いや考えがあっても「ええがな!」なんです。
だって、それは所詮、思いや考えでしか無いんですからね〜。

幻想だったらなんだってええがな!って話ですもん。

その上で、でもきっとこの考えが嫌だ!っていう人もいるだろうな〜って思うなら自重すれば良いわけですし、
嫌だ!と思う人がいるだろうけど、別に迷惑はかけないよなって思うなら突き進めばいいわけです。

その根底には、所詮たんなる考えですし。
っていうね。

思いに重きを置かないってことが、「ええがな精神」の行き着くところなのかもしれませんね。

器なんてものも、実際にあるものじゃないですからね。
それにこだわらなきゃ、境界なんてものもないわけです。

境界は、執着と思い込みで作られているだけですからねー。

 

 

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