Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自己定義を捨て去るということ

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

今話題のChatGPIに、非二元のことを聞いてみたら、
性自認の話だとでてきました。
どうも非二元というのを(non-binary)のことだとしているみたいでして、
non-binaryとは自身の性自認を男性か女性かがハッキリしない!ということらしいです。
そのせいで差別や偏見というものもあったりしますよ〜というお話でした。

ま、ChatGPIの件はどうでもいいんですけど、
やっぱり、僕らっていわゆる自認、これって自己定義のことだと思うんですけど、
この自己定義に悩まされることって多いんだよな〜って思いました。

この自己定義を更に自分が否定しちゃうってなことも起こりますのでね〜。

さらに、自己定義を否定している自分を更に否定するとかね。
こんがらがってくるんですよね。

そんなわけで、この自己定義をなんとか変えようとしたりする方法論が、
いっぱい溢れていたりするわけですが、

そうするとまた、その方法を使ってもうまく自己定義が変えられなかった。
何が間違っているんだろう??

ってね。
更に自分を否定したりしてね。

なんだかぐるぐるしちゃったりするんですよね。

まあでも、これって、定義ですからね。
真実とは違うんですよ。

 

定義って幻想だよね

よくね。
数学なんかで、例えば、
X+1=3である。
つまり、X=2である。

みたいなね。
そういうのがあるじゃないですか。

でもXって2じゃないですよね。
普通に考えたら。

字面が違うじゃんっ!
ってなるじゃないですか。
ただ、定義付けの世界でそういうことにしているだけですもんね。

これって、本当に鬼がいるわけじゃないけど、そういう定義にして鬼ごっこをしているというのと同じようなことなんです。

ここでいう鬼もまた定義じゃないですか。
だから、鬼ごっこをしている間、鬼になったならその人は鬼ということになるわけですが、だからといって、

「ああ、なぜ私は鬼なんかになってしまったんだ・・・」

っていちいち悩まないじゃないですか。だって、ただの定義ですもんね。

自己定義というものも同じで、
この定義された自分についてあれこれ悩む必要ってホントにあるの??というとないですよね〜。

僕らはどんな夢をみせられているのか

目覚めってね。いわゆる夢から覚めることなんですが、
僕らはどんな夢を見させられているのか?といいますと、その夢というのは
定義された自分を中心に紡がれるストーリーなんです。

ということは、
悩みの元も、幻想の夢も、自己定義から始まっとると言っても過言ではない!
ということなんです。

で、そうきくと僕らはついつい、そんな幻想や悩みを跳ね返すほどの自分を手に入れよう!
としちゃうんですが、
これもまた、新しい自己定義を欲しがってるわけでして、どんな自己定義を手に入れようとて、幻想の夢は覚めることはないんです。

なので、もうありとあらゆる自己定義を捨て去ってしまえばいいわけなんです。

自己定義を捨て去る

自己定義は自分ではありません。だって定義ですからね。
自分というものが大海の水なんだとすれば、定義は容器です。

この容器を捨て去れば、水は大海へと戻っていくわけです。

とはいえね。
自己定義って幻想ですから、実際に持っていないものなんです。

持っていないものを捨てるって、どうしたら良いの?って思いますよね〜。

それは、相手にしないということなんです。
本気にしないでも良いかもしれません。

つまるところ、なんにもしないでいてみるということになるんです。

自己定義は本気で信じて相手にしない限り機能しません。
モノじゃなく、働きのようなものですので、機能させなければ良いんです。

 

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