Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【思いグセ】自分像という檻

はじめに

はーい。
どうも、絵が下手くそなデザイナー。
タクさんです。

僕は大学は普通の大学出身なんですが、
在学時にデザインの学校にも通っておりまして、
その後、デザイン事務所に勤め始めてからは環境は変われど、ずーっとデザインの仕事をしているんですけどね。

絵が下手くそなんですよ。

なんかみんな、デザイナーだというと、
「だったら絵が上手なんでしょう?」
って思われちゃうので、それが結構困っちゃうんですよね〜。

そもそもね。

学校でも勤め先でも、絵の練習なんてしたことないんですよ。
仕事でも、たまーにイラストっぽいものを描くというよりは作ることはありますが、
まず、絵なんて描かないんですよ。

まーでもねー。
ちょっと趣味で絵を習っていたことはあったんです。
下手だけど描くのは好きですからね〜。

仕事にも役立つかもしれないと思って習っていたんですが、
そのときに、先生から
「自分が描くキャラクターは、どこか自分に似るんだよ。」
ってことを教えてもらったんですよね〜。

何気なしに描いたキャラも、どこか自分の中の自分像を投影するんだそうです。

これってちょっと面白いな〜って感じました。

実際、僕らが見るモノ、聞くこと、感じることって、
突き詰めるとぜーんぶこの自分像の投影だったりしますからね〜。

いわゆる思いグセというものも、やはり自分像の影響を多大に受けているんですよね。

 

・自分像と自分は全く違う

ですが、この自分像というのは、あくまでイメージであって、自分ではありません。
今までに作り上げたいわゆる偶像なんです。

そしてこの偶像のイメージは、どのような構成となっているのか?
といいますと、

これは、無数の枠組みが複雑に絡み合ったような構成になっているんですよね〜。

そして、この枠組みが、強力な鎖となって僕らを縛りつけているんです。

鎖と言ってもイメージの鎖ですので、
本来は強制力はないんですが、それが何故か強力な鎖となってしまっているんですよね〜。

また、この枠組みはものすごく気づきにくいものなんです。
だから僕らって、知らないうちに見えない鎖に縛られて、知らないうちに牢獄に閉じ込められているようなものなんです。

・枠組みとは思いグセ

枠組みとはクセのようなものです。
何のクセなのかというと思い方のクセ、思考クセですね。

ほら、僕らって、走り方から歩き方。
話し方から表情の作り方まで、ありとあらゆるクセがあるじゃないですか。

ですが、そんなクセって普段は気づきませんよね。

でも、みんな個々のクセを持っているんです。

文字だってそうですよね。
筆跡鑑定なるものがあるのも、個々人がみんな違うクセを持って字を書いているから成り立っているんですもんね〜。

姿勢や表情や文字のように目に見えるものであるなら、よくよく観察すると自分のクセにも気づけたりするかもしれませんが、思いのクセは目には見えないので、ものすごーく気づきにくいんです。

これが、目には見えない牢獄となって僕らを閉じ込めているんです。

・自分像という檻

「私ってこうなんです〜。」
「私はこういうところがあって〜。」
って普段思ったり、言ったりするじゃないですか。

これもね。
厳密には「私」というよりは「自分像」なんです。

つまりは、枠組みによって作られたイメージと反応なんです。

じゃあ、「私」とは一体何なのよ!ってなっちゃうわけですが、
これはほんと、なんでもないモノなんですよね〜。

何にも縛られずココに「在る」ものなんです。

なので、私を探すよりは、私は何ではないのか?を見ていくほうが、自分像を作っている枠組み、檻が発見しやすいんです。

あ、これは単なる枠組みであって、「私」ではないよね〜ってね。
そんな感じでみてみると、いつの間にやら閉じ込められていた檻があらわになってくるんです。

檻は架空のイメージですのでね。
注目しなければなりたたないものですからねー。

私以外への注目をやめてみると、ただいまここに在るなんでもないモノが蘇ってきてくれるんです。

 

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