Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

知るは煩悩、知らぬは仏。

はじめに

はーいどうもー。
おはようございます。
タクさんです。

知らぬが仏。
って言葉があるじゃないですか。

大体はちょっと嘲りが入った感じで使われたりしますよね。

「あいつ、あんな事になってるとも知らないで・・・。知らぬが仏だよな。」

みたいな感じでね。

意味的にも、仏を平静な心を保っていること。といったような解釈がされているみたいです。

でもこの「知らぬが仏」という言葉もね〜。
ふかーく感じてみると、
その言葉、そのまんまの意味だよな〜。

なんて感じたりしました。

つまり、知るということ。
それ自体がいわゆる煩悩の元であって、
この知るの本来の様相を知ることで知らぬに至る。

これすなわち仏なり。

なんてね。

なんかそんなふうに感じたんですよね〜。
もしかしたら、語源的にはそういうニュアンスがあるのかもしれませんねー。

 

知ることは判断材料を得ること

僕らはあらゆることを教わって知っていくことにより、知ることに価値を見出してきましたからね。
知るが正義で、知らぬは馬鹿。
みたいなね。
そんな観念をどこかで植え付けられているのかもしれません。

だから、知ることでさらに高みを目指せる。
みたいなね。
そんな幻想に囚われたりしちゃうんですよね。

ですが、知るというのは、いわゆる判断材料を得ることになります。

そして、判断材料とは、何かを分離する境界線の付け方ですからねー。

これが多いほどに、分離は複雑に細かくなっていくわけです。

そもそも存在しない分離を複雑に持てば持つほど、
分離から生じる幻想は、より大きくなっちゃう。

みたいなね。

知るは煩悩、知らぬは仏。

仏というのは、ま、いろんな解釈が有るんですが、
心を平静に保つことというのとは別に、真実を正しくみることという意味合いもあります。

そして、知ることは、真実を正しく見ることに必ずしもつながるわけじゃなく、
むしろ、歪んだレンズのようになってしまうわけです。

歪んだレンズを重ねるほどに歪みは大きくなるんです。

この歪んだレンズを取り去ることによって、
そのまんまをそのまんまにみることができるんです。

つまり、知るを取り去るということですね。

ただ、知ったことを忘れようと頑張ってもどうしようもないので、
知るとはどういうことなのか?ということを知ることで、
知るとは知らぬことである。っていうことがみえてくるわけです。

ま、言葉で書いているとわけがわからん感じになってきますけどねー。

知るが煩悩を生み出し、知らぬに至ると仏に還る。
ってことでしょうかね。

知るは煩悩、知らぬは仏。
ということですな。

 

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