Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自身との対話

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

ま、この話ってね〜。
あるがままへの対峙ですからね。

僕らはあるがままだと嫌だ〜!って思っている部分とも
対峙しなきゃならなくなったりするんです。

そもそも僕らのモチベーションって、
より良くなるためか、もしくは嫌だ〜!を無くしたい!
ってものが多くを占めるものなんですけど、

この「より良く」とか、「嫌だ〜!」っていう部分は、
なんらかのイメージなり観念なり定義なりによって作られた幻想を元につくられたりするんですよね。

なので、あるがままに対峙していると、そういうのが浮かび上がってきたりするんですよ。

それは、嘘がバレてくるというのにも似ていますが、
逆に言うと、思考は思考である。定義は定義である。観念は観念であるっていうね。
そんな当たり前が当たり前に収まってくるということでもあるんです。

 

あるがまま

あるがままっていうのは、言葉通りあるがままですので、
僕らはこのあるがままから逃れることは出来ません。

怒っているなら、いくら笑顔を作っても、やっぱり怒っているので誤魔化せませんよね。

それにたいして、やせ我慢をしてみても、キーッと怒っても、そこはどっちでも良いんですが、怒っていることを怒ってないには出来ないですもんね。

逆に言うと、どのような態度でいたとしても別に一緒ということでもあるんです。

ま、ここはパラドックスでもあるんですが、どうなっても一緒じゃ~んってことがわかるにつれて、かる~くなってくることもあるんですけどね〜。

ま、そんなわけですのでね。
自分の態度なりなにかをより良く改善するということでもないですし、
嫌なことから避けようとするわけでもないんです。

僕らはついついよりよく改善するために、やせ我慢をしようとしたり、
嫌から避けるために、それを避けるための方法を模索したりしちゃいますけどね。

この行為が起こることは何ら問題ないんですが、その結果に執着しなくても良いんですよね〜。

誤解を解く作業

あるがままにあるっていうのは、いわゆる誤解を解く作業に似ているのかもしれません。

なにかに執着しちゃうならそこにも何かしらの誤解があったりするわけです。

ちょっとしつこいかもしれないですが、これもまた自分の改善じゃないんですよ。
自分を改善するというよりは、あるがままの自分を受け入れるっていうことなんですが、
変な話うけいれるべき「自分」っていうのも存在してないんです。

じゃあ、どうやって受け入れるのよっ!って話なんですが、
受け入れると、その「自分」は咀嚼されて消えるって感じなんです。

ありのままの自分とはこうだっ!って分析したり決めたりするようなことでもないんです。

大体のところ、
これがありのままの自分なのっ!
とか思ってる自分って、結構理想の自分だったりお気に入りの自分だったり、
こだわりの自分だったりすることもあったりするんですけどね〜。

そういうのは、ありのままじゃなくて、何かしらの色が入ったものなんです。

その色を抜いていくっていうのが、誤解を解いていくってことなんです。

不都合な自分との対話

ま、そうやって誤解を解いていくという作業は、
自分との対話みたいな作業になったりするんですけどね。

この自分っていうのは、身に染み渡ってきた観念なんですよね。
そして、場合によっては自分が一番キライな自分というものと対話していくことになったりする場合もあります。

でもね。
それは自分ではなく、あくまで観念ですからね。
それを自分としていることが最大の誤解なので、
イヤーな自分もカジュアルに許してあげること。

これが誤解を解く大いなるコツでもあるんです。

 

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