Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【定義という幻想】私だけがいない街

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

漫画でね。
「僕だけがいない街」っていう作品があるんです。
ちょっと僕も詳しい内容は忘れちゃったんですが、いわゆるタイムリープもののサスペンス系だったかと思います。

ま、この漫画の内容の話はおいておいてですねぇ。
それよりもこのタイトルがちょっと面白いじゃないですか。

僕だけがいない街。ってねー。
ちょっと怖い感じがしますが、
じつはこれね。

その通りなんですよ。

みんなね。
自分がいるって思ってるじゃないですか。
そして、自分がいてみんながいてってねー。

ここで、自分だけがいないとなるとどうでしょうか?
ええ?そんなのありえなーいって思うでしょう?

でもね。
私って何?自分ってどれ?
って言われると、
だーれも説明できなかったりするんですよね。

 

自分は身体じゃないの?

自分は身体だー!
って思うかもしれませんけどね。

体のどの部分?
って聞かれると、それはわからんってなるんですよ。

でね。
体全体だー!って思うかもしれませんけど、
じゃあ、爪を切ったとしたら、その爪はゴミ箱に捨てたりするけど、
それも自分なの??

髪の毛は??

って聞かれると、
髪の毛と爪は別だー!

ってなるんですよね。

じゃあ、指は??
指がもし、ちょん切れちゃったら、その指は自分なの??
って言われると、
切られた指は自分じゃないけど、残った体は自分だー!

ってなると思うんですよね。

もうそうなってくると、体は自分っていう定義は破綻しちゃっているんです。

自分がいるという感覚は否定できない

そこで、でもやっぱり自分がいるっていう感覚はあるので、
やっぱり私はいないという話は納得できない。
って思っちゃいますよね。

この自分がいるという感覚が間違っているというのか?
って感じるかもしれません。

これも別に間違っていないんですよ。

要するに、この感覚を「私」としているのは、
いわゆる定義ですよね。

この定義っていうのが実際に実存しているものじゃないよ。
ってことなんです。

定義ってねー。
絶対に必要だと思い込んでいる節があったりするんですけどね。

ありとあらゆる定義って、でっちあげと同じようなことなんですよね。
だから、それほど定義にこだわらなくてもいいんですよ。

そして、「私」というものもまた定義の中にしか存在していないんです。

つまり私はでっち上げの定義の中にしかない。
ってことなんですよね。

定義という幻想

この定義を掴み取らずにいてみるんです。
そうしたところで、べつに見える景色もなんにも変わらないんですけどね。

でも、僕らはその景色そのものを見ていたのではなく、
定義を見ていたことに気づくんですよね〜。

そして、その定義に右往左往していたんです。

定義を採用せずにみてみると、
まさに僕だけがいない街が目の前に広がるというわけです。

 

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