Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

カルマからの解放

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

みなさんは、カルマという言葉にどんな印象を抱きますか?

よく、カルマは手放されなければならない。
なんてことも言われていますので、
ちょっと悪いイメージを持っている方もおられるかもしれませんね。

先祖のカルマ、過去生のカルマが今のこの状況を作っている〜!
的なことをまことしやかに言う人もいるので、
そういう怖さみたいなものを感じておられる方もいるかも知れません。

カルマというのは、大体は「業」と訳されたりします。
業とは何か?というと、因果関係のことですね。

原因と結果といういわゆる解釈法。
それが業です。

これって、あくまで解釈法ですからね。
怖がる必要はないんです。

解釈とは、分かれていない全体を、どこで分けるか?
というやり方の一つであって、どのように分けるのが正しいのか?
なんてものはありません。

解釈に正しいも間違いもないんです。

ただ、人は社会的な生き物なので、
だいたい同じ解釈をしないと具合が悪いところがありますので、
解釈にブームがあって、主流の解釈があるわけです。

極端な例を申しますと、
人殺しは平和な今の世の中では悪いことですが、
戦国時代は、敵を沢山殺すことは英雄視される。
みたいなことでしょうか?

日本では昔は人民の考えを共通化させる目的として仏教という解釈法を輸入して、
それを国教とさだめることで、思いや心を統一させた。
みたいなことがありましたが、こうやって主流の解釈を作るわけです。

だから、そういったルール内においては、正しいと間違いはあるんですが、
それは、ゲームのプログラムのようなものなんです。

 

カルマの意味

さて、カルマ。
このカルマには、業ともう一つの意味があります。

それが、行為という意味です。

行為は回り回って自分に帰ってくるよ〜。
みたいな話もあったりしますよね。

この行為と業があわさったのがカルマというわけです。

だから、良い行為をしましょうね〜。
なんて話もあるんですけどね。

この考え方はとっても良いと思いますが、
良い行為、すなわち善行を積むというのと、カルマを手放すというのは、
ちょっと違う話なんです。

また、カルマの解放ってね。
いわゆるトラウマ的なものを癒やすみたいな解釈もあったりしますが、
そういうことともちょっと違うんです。

カルマからの解放

行為には必ずついてまわる観念があります。
それが、「私」という観念です。

主体者がいないと行為という解釈は成り立ちませんからね。

行為は私があって初めて成り立つんです。

その私と、僕らが普段持っている自分という感覚。
これらが混同されることによって、
僕らはカルマに巻き込まれるんですね〜。

よく、私はいないという言葉を聞いて、
混乱するパターンとして、

いないと言われても、れっきとした自己感覚というものがあるんですけど。

これ、私じゃないの?

という混乱があると思います。

この自己感覚は解釈を当てはめるとどうしても「私」になっちゃいますし、
それ以上にしっくり来る解釈なんてありませんもんね。

でも、解釈自体がいわゆる幻想みたいなものですのでね。

自己感覚は私ではないですし、解釈でもないんです。

このあたりが明確に気づかれていくことで、
僕らはいわゆるカルマという解釈と「自分」を混同することから目覚めていくんです。

この目覚めがカルマからの解放ということなんです。

 

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