Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

退屈やヒマがツラいはずがない

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

まあほら。
ゲームとかやってても、
きぃー、うまくクリアできんー!って
腹が立つこともあるじゃないですか。

それでも、まあそれも面白いからやるわけですよね。
それ込みで面白いからやるわけです。

ときには、
あー、やりたくなーい!って思いながらもついついやっちゃったりしてね。

結局、面白いからやるわけです。
面白いからやってるわけですし、別にそれで良いっちゃ良いんです。

でね。
ほんと〜にツマラナイならやめりゃ良いわけですからね〜。
だって、ゲームですし。
退屈だっていうのならね。その退屈な中でボーッとしてりゃ良いんです。

 

思考ゲーム

ま、ゲームならつまらなければ、誰もやらないって思うんですけど、
これが思考となるとね〜。
なぜか、つまらないし、やりたくないっ!って思っててもやっちゃう。
っていうことがあるんですよね〜。

そもそも思考だってオモロくなきゃやらなきゃ良いだけの話なんですけどね。

でもなぜか、嫌なだけにやたらと注目しちゃうっていうね。
そんな変なクセがあるんですよ。

なぜ嫌なのに注目しちゃうのか?というと、
思考のイメージと現実を混同しちゃってるからだったりするんです。

だから、ついつい嫌なことを危機ととらえて、そのことばっかり考えちゃったりするんですよね。

でもほら、周知の通り、思考ってイメージじゃないですか。
空を飛びたいなぁ〜。って考えたとしても別にそう思った途端、空に浮くわけじゃないですもんね。
だって、イメージなんですから。

イメージはどこまでいってもイメージですからね。
このイメージを現実だと思っちゃうから変になっちゃうんですよね〜。

思考の中毒性

でもこのあれこれと考え続けてしまうってクセはね。
なんかちょっと中毒性もあったりしてね。

習慣化されているので、どうしてもそれをやめてしまうと、
でもそれだと退屈だものぉ〜。って思っちゃったりするんですよね〜。

そして、退屈に耐えられなくなってまたあれこれと考えちゃう。
みたいなね。

そう言えば、禅寺での修行なんかでも常に忙しくして
考える暇もない。
目の前のことに一心不乱になる。
なんて練習もあるそうで、これも結局の所やることがないと余計に考えたりしちゃうこのクセを矯正しているわけです。

ま、暇になると思考が暴走するのも、
退屈に慣れていないというのと、イメージを現実と混同しているという
2つの要因がマッチしているからでもあるわけですね〜。

瞑想なんかも退屈に慣れる練習みたいなもんじゃないのかな?
って思ったりしています。

退屈やヒマがツラいはずがない

そもそも、退屈ってツライものじゃないはずなんですよ。
だって、負荷がかかっているわけじゃありませんからね。

退屈やヒマがツライってかんじるのは、ただの禁断症状みたいなもんが出てるだけで実際に退屈がツライはずがないんですよね。

ですので、退屈やヒマが嫌だ!ツライ!っていう思いは錯覚なんです。

この錯覚に騙されないためにも、ちゃんとボーッとしてみると良いですよ。
ちゃんとボーッとすることをしていないと、思考のクセにガンガン取り込まれちゃいますからね〜。

なので、考えはオモロイならそれを遊べばいいですし、心から嫌なことなら、そんなのやめてボーッとすればいいんです。

 

 

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