Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

まったき静寂

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんどえーっす!

どえすて、、、。なんか久しぶりですよね。

さて、みなさん、最近は自然にふれてますかー?
やっぱねー。
自然に触れると、心が晴れやかになったりしますよね。

なんていうか、自然って定形じゃないんですよね。
そりゃ、僕らが触れている自然なんて所詮管理された自然なんでしょうけどね。
それでも、木々だって全部個性がありますし、石ころだって四角でも丸形でもないですし
道はガタガタですし、
なんていうか、直線とか、正円なんてかたちのものがないんですよね。

なんか、そういうのも気持ちがいいような気がします。

よくね。
都会の喧騒を離れて、、、。
なんていいますが、これもね。
人工物を離れるってことなのかもしれませんね。

なんか、人工のものって、その作られた意図がすぐにわかるじゃないですか。

例えば、椅子なら座るもの。コップなら液体を入れるもの。

みたいにね。

コンセプトと直結しているんですよね。

なので、見た瞬間に、コンセプトを頭の中でイメージしてしまうので、
そのへんが喧騒になってるんじゃなかろうか?

なーんて感じたりもします。

逆に自然のものには、人のコンセプトは入りにくいですからね〜。
庭園などには入ってくるんでしょうけどね。

だから、喧騒から離れられる分、静か〜な気分になれるのかもしれません。

まーね。
そんな自然なんて、触れる機会はなかなかないよっ!
って方もおられるでしょうけど、
そんな方はどうかぜひ、空を見上げてみてください。

良いですよ空!空模様には人のコンセプトは入りませんから。
あれこれと悩みがあるときはひとまず空を見てスカッとしてみるのをオススメします。

 

静寂と喧騒

コレとは、まったき静寂です。
ただ、この静寂ってね。音がないとかそういうことじゃないんですよね。
だから、静か〜なところじゃないと静寂に在れないってわけじゃないんですけどね。

どこにでも、そしていつでもこの静寂はココにあるんです。
この静寂にあってみて初めて、思考の重苦しさを知るんですよね〜!

「うへぇ〜!こんなに重たかったのぉ〜!」
ってなもんです。

でも
なんかね。
サイレンスなんていうメソッドがあったりするんですけどね。
簡単に言えば、一切言葉を話さずに過ごすってやつなんですけど、
まあ、言葉を話さなくても、頭の中であれこれと考えてたら一緒なんですよね。

静寂を探すより、喧騒をやめてみる。

静寂を探そう探そう!とするよりもね。
ただただ、喧騒を消しちゃえばもう残るのは静寂だけになります。

でもね。実は喧騒って実際には無いんですよね。
この無い様子を観てやれば良いんです。

この喧騒っていうのが思考のことなんですよね。
思考というのは言葉とセットになってますので、言葉を排除するってのもありっちゃありなんですが、話すのをやめるのではなくて、言葉自体がもう無意味な音でしか無いということをちゃんとみてやればいいんです。
そして、文字はただのシミみたいなものであるということもみてやるんです。

あるがままに観る。ありのままを観るっていうのは、そういうことなんです。
何かを探してみたり、どういうことなんだろうって解釈を試みるってことではないんですよねー。

解釈は喧騒なんです。
そして、これらの喧騒は実際には無いんです。

ちゃんとあるがままをみると、それが見抜かれるんです。
そのまーんまのコレには、喧騒という思考が入る余地ってないんですよね。

幻想が真実の中に入る余地がないのと同じでね。

 

 

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