Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

世間からみた「私」と、自分自身がみる「私」

はじめに

へぇーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

足りない私がなぜできるのか?
というと、比較の概念によるものなんですね。

その比較対象でわかりやすいのが、
あの人と私との違い。
とか、
世間的な平均像と私との違い。

みたいなやつです。

ちなみに、ここで出てくる「あの人」や「世間的な平均像」ってのも、
私の中の妄想に過ぎないんですよね。

思ってるような「あの人」や、
想像しているような「世間的な人」なんて全く存在していないんです。

パッと見で勝手にあの人はそういう人だ!
って妄想で決めつけて、その人物像と私を比較しているだけなんですよね。

そして、ここで比較に上がってくる「私」っていうのもまた、
妄想の「私」に過ぎないんです。

 

世間からみた「私」と、自分自身がみる「私」

これね。
ちょっと想像してみたらわかると思うんですけどね。

例えば、親にこう思われているであろう「私」と、
自分自身が、思っている「私」って、
全然違うって思いますよね。

親はきっと私のことをこう思ってるんだろうけど、
全然違うんだよな〜。
って、感じると思うんですよ。

とても身近にいる親ですら全然違うんです。
ましてや、世間の人に思われている「私」なんて、
自分自身が感じている「私」とは、似ても似つかない他人と同じくらい乖離があるんですよね。

どちらの「私」も存在しない

そして、どちらの私が本当の私なのか?なんてね。
そんな正解は無いんですよ。

そりゃ、自分自身が感じている私こそ本当の私なんだ!って、自分自身は言いたいんでしょうけどね。
相手が認めなきゃそんな「私」は存在しませんし、
だって、いくら自分自身はこういう人間なんだ!と言ったとしても、
人は、そんなことを感じないのなら、その私は自分のイメージの中にしかいないわけですからね。

また、逆に、人に言われて気がつく「私」の側面もあったりするわけです。

つまりどちらの「私」もイメージの中にしか存在しないものであり、
そのどちらもが妄想のようなものなんですよね。

これ、そもそも「私」なんて存在しないし、この「私」は思考の中にしか存在しないものだから、そうなってしまうんですよね〜。

ありもしないモノ同士の比較

つまり僕らは、「私」と「私以外」を比較して、あれこれと苦悩するわけですが、
その実、これってありもしない単なるイメージ同士を比較させて、その差に悩んでいるというわけです。

そして、そんな中で、どうなれば良いのか?どうあれば良いのか?
なんてことを常に考え続けちゃってるんですよね〜。

また、そうやって考え続けちゃうのもやっぱり、なにかしらの「私」がいると思ってるからだったりするんですよね。

そして、できれば、自分の中の理想の私を他の人にも植え付けたくなったりするんです。

でも、いてませんのでね。
そんなの。

いくら頑張って繕ってみても、うまくいったりいかなかったりして、
どっちに転んでも、落ち着かないんですよね。

だって、理想のワタシなんてものも、ウソだということを誰よりも自分自身が知ってますのでね。
人に理想的な人と思われすぎても不安になるし、その逆でもやな気分になるっていうね。
ゴールのない輪廻なんです。

それをなんとか、地位とか肩書とか、そういうもので埋め合わせをしようとしたとて、
不毛な終わらない探求になっちゃうんですよね〜。

だって、うまくいってもいかなくても満足出来ないんですもんね。

解脱

ただ、そんな「私」に振り回されなくても良いんだ!
だって、存在してないんだし〜♪
それらは全部勝手に出てくる妄想だもんね〜!

ってな事実に気づいちゃうことで、どんな私も許されていたことに気づくわけです。

すると、許せない私という大きな重荷から開放されるんですよね〜。

ほんとにこれって、想像できないくらい大きな重荷だったことに気づくんです。
マジで軽くなるんですよね。

「私」からの解放とは、考えからの解放なんです。
考えとは、思考が作るありとあらゆる世界観なんです。

そんなありとあらゆる世界観は「私」という架空の概念を中心に描かれていたんです。
この世界観から解放されること。

これがいわゆる解脱なんです。

 

この辺のお話、もっと詳しく聞きたーいって方は
よかったら検討してみてくださいましね♪

takuteto.hatenablog.com