Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自己承認を完全に満たす裏技

はじめに

ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

どこだったか忘れましたが、
「お父さんはみんな昔悪かった」
みたいなコピーを見た気がするんですけどねー。

ちょっと何でそれを見たのかは忘れましたが、
一昔前のおじさんたちは、昔悪かった自慢をしたものですよね〜。

そういえば、うちの親父もしてたような気がします。

ま、大概が学生だけど酒のんで麻雀ばかりしてた〜。
みたいなたぐいの可愛いやつが多いんですけどね。

でも、最近はあまりワルっていうのがカッコいいなんて概念はなくなってきましたね。
きっと、今悪かった自慢しても引かれるだけなのかもしれませんねー。

人の武勇伝自慢ほど退屈な話はなかったりしますが、
それでもやっぱり言いたくなる気持ちはわからんでもないです。

僕らはだれだって、
ワシはちょっとスゴイんだぜ!
って思われたいものですもんね。

 

スゴイと思われたいっ!

スゴイと思われたい!
っていう、あの快感、あの甘美な感じはなかなかのものがあります。

脂肪と糖分に通ずるものがあるのかもしれませんね。

ま、そして、甘美なものには罠がある!ってなもんで、
この甘美に取り憑かれると、途端にぼくらは承認欲求の虜になってしまったりするわけです。

そもそも、自分というものは、アバターのようなものでして、
実際にはあるようにみえて無いものなんですが、
スゴイと思われたい!という甘美な感覚は、この自分というアバターに対するこだわりなんでしょうね。

このこだわりが次は、自分を着飾るものに変わっていったりするわけです。
それが、自分の地位だったり、
はたまた、腕時計や、車や、住む場所や家になっていったりしてね。

最初は自分というアバターへのこだわりだったはずが、
このアバターに纏わせる別のものにまでこのこだわりが無限に拡がっていくわけです。

そして、求めれば求めるほどに渇いていくんです。

比較という幻想の世界

スゴイと思われたい!の「スゴイ」は必ず比較対象が必要になってきます。
もちろん、この比較というのもただの概念に過ぎないわけで、
まさに幻想そのものなんですけどね〜。
なので、「スゴイ」にこだわればこだわるほどに、その比較の概念を真実だと錯覚してしまい、そのうち、比較の世界に取り込まれてしまいます。

そして、その比較によって、常に自分が裁かれるようになってしまうんです。

甘美を求めるほどに、その比較のハードルはドンドンと上がっていきます。
上がれば当然のことながら、自分という幻想はその比較に敵わなくなってきます。

そして、ますます自分は、その比較の幻想に裁かれ糾弾されるんです。

ちなみに、糾弾され、傷ついているのも自分ですが、糾弾しているのも自分っていうのもちょっと皮肉なんですけどね〜。

自己承認を完全に満たす裏技

ですが、ここで簡単にそのハードルを飛び越えちゃう裏技があるんですよ。
もう飛び越えなくても、スーって通り抜けちゃう事ができるんです。

その裏技っていうのがね。
このハードルを思いっきり下げてやるということなんです。

そもそもこのハードルは架空のものですからね。
上げることが出来るなら下げることも出来るんです。

どうやって下げるのか?というと、
今の自分を許してあげるということです。

そもそもこのハードルは架空のものなので、自分はすでに許されているんですよね。
だから、許してあげるんです。

ハードルが下がるたびに、そのハードルが架空のものだったことが明らかになってきます。
すべてのハードルは完全な幻想だと知ったとき、
すでにそのまんまで完璧だったことを知るんです。

そして、最後に残るハードルが「自分」という幻想なんですね〜。

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