Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想は幻想だとバレると消える

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

中学の英語の教科書でねー。
なんか、こういうのありましたよねぇ?

Is this a pen? 
(これはペンですか?)
No, it isn't. It's an apple.
(いいえ、これはりんごです)

みたいなやつ。

なんで、ペンとりんごを間違えるねんっ!
ってねぇ。
ツッコんだりしましたよねー。

ま、こんな例題をやってるから、
日本ではなかなか英語が上手にならなかったりするんでしょうかね。

まー僕も、英語の文献とか読めたら良いよなーって思って
何度か英語を頑張ろうとしたこともありましたが、
てんでダメでした。

まあ実際に、ペンとリンゴを間違っちゃうような日常だと、
色々と大変でしょうねぇ。

でもね。
もしかしたら僕らも、実はこのような間違いをしてたとしたら、
そしてそれに気づいていないのだとしたら、
知らないうちに大変なことになっちゃってたりするのかもしれませんね。

でね。
僕らの混乱というものは、そういうところから起こっているのかもしれないんです。

 

あるがままとは、正しくみる

仏教なんかでもねー。
八正道っていう言葉があるんですよね。

これも思いっきり端折っていってしまうと、
正しく見なさいよ!
という教えなんです。

ここで言う正しいとはね。
いわゆる、こっちが正しくこっちが間違いと言ったようなことではなく、
また、道徳的だったり、モラル的にこちらが正しい。
と言うようなことでもなく、

むしろ、そういった道徳であるとか、教えだとか、
そういったものの一切合切を除いて、
ただただ、あるがままに見る。

これを正しく見る。
すなわち正見だと言っていると思うんですよ。
(知らんけど)

あるがままにみるとは、純粋にただあるがままにみる。
と言うことですのでね。

純粋にみると言うのは、
それが、どんなに正しく思えるような教えだったり、概念であったりしても、それを通すともう純粋じゃなくなりますのでね。

一切合切の概念や観念を採用しない。
と言うことですねー。

ま、簡単に言うと、判断を通さずに、ただみる。
これが正しい見方だよねー。
というね。

改めて聞くと、当たり前のことだったりするわけです。

お化けはバレると消えてしまう。

「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」っていう、
ことわざみたいな言葉があるんですけどね。

ま、枯尾花というのは、枯れたススキのことなんですが、
ようするにその影を見て幽霊だとびっくりしてましたよー。
っていう話なんですけどね。

幽霊にしても、いわゆる幻想にしても、
正体を見たら消えちゃうんですよね。

幽霊の正体である枯れススキをみてしまうと、
もうその枯れススキを幽霊だとみようとしても難しくなるんです。

これはね。
思考の幻想も同様でね。

それを本当のリアルであるとみようとしても、
もう幻想だと知っちゃうと難しいんですよね。

つまり、思考によって演出される幻想もね。
幻想を幻想としてみてやると、もうその幻想は消えちゃうんです。

映画を見てる途中で、
「でもこれ、ただの映画だし」
って言っちゃうと、途端に映画のリアリティが消えちゃうのと一緒でね〜。

なので、幻想を真実だと錯覚して何かをしようとするのではなく、
ただみてやれば良いんですよね〜。

ただみる。とは、みる以外の一切合財をしないというところがミソなんです。

 

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