Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想を打ち消す呪文

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
いやー、昨日2万歩ほど歩いてまして、
ややお疲れ気味のタクさんです。

いやー。
でも体動かす仕事をしてる人からすりゃ、2万歩なんて軽すぎるんだろうね〜。
座りっぱなしの僕はもう体が鉛っぱなしです。

ま、でも歩くのは良いことらしいのでね〜。
ちょくちょく続けていきたいと思います。
みなさんはどの様なウォーキングライフをお過ごしでしょうか?

さて、
今日も今日とて、探求と私について書いてみたいと思います。

探求が終わると、きっと楽になるんだろうな〜って思ったりもしますよね。
まあ、探求がおわるというよりは、探求への執着が終わるってことですのでね〜。
別に、何かしらの方法を探すことが出来なくなるってわけじゃないんですけどね。

ゲームを楽しむために何かしらの方法を探そうとすることは起こるときには起こるんです。

ただ、悲壮な緊張感をもって、足りない自分というものに苦しみながら、
その自分を埋めるために何かを探求するっていうね。

そういうのはなくなるんですよね〜。
だって、足りない自分ってのが、もう成り立ってない言葉であることがバレちゃってるからなんです。

でね。
探求の先に何かしらのゴールが在るわけじゃないんですよね。
ここ、ちょっとややこしいですよねぇ。

探しものは見つからないんです。
立ってココにあるからなんですが、
じゃあなんで、ココにあるものがわからないのよ!
って思っちゃいますもんね。

すでにココにあるとは、
なんていうか、見つけることはちょっとできないんですよね。

これは、自分の目を自分で見ることはできないってのと似ています。
あなたから発せられている光をあなたは観ることができず、
その反射を観ようとすると、影と一緒にみなきゃならないっていうね。
ちょっとわかりにくくなっちゃいましたけど。

 

探求と私はセットになっている

さて、この探求と私というものは、実はセットになっております。
なので、探求をやめたら私というものも消えていきますし、
逆に、私が消えたら探求というものも消えていくんです。

私というものの別の現れ方が探求であり、
探求の衝動の元には私がいるんですよね〜。

この探求を続けることで、私は存続することができているんです。
また、この私が原動力となり、探求が起こるんですね〜。

この私とは、分離された私であり、
それは、「足りない私」という概念なんです。

だから、探求が強まると私も強まり、
私が強まると、探求もまた強まるんですよね〜。

幻想を打ち消す呪文

なので、私が探求するという図式があるうちは、
その探求の先には何かが見つかるわけでもなく、
探求の終わりは来ないまま、ずっと足りない私を持ち続けなきゃならなくなるんですよね〜。

なので、探求をヤメてやれば、自ずと私は消えていくんです。
でもこうなると、
「そう入っても、足りない私があるから埋めなきゃならないんです」
ってね。
そんな思いが湧いてきて、また探求に駆り立てようとしてくるんですよね〜。

でね。この駆り立ててくる衝動への対処としてね。
「コレデイイノダ」という呪文があるわけです。

この呪文は、「足りない私」という幻想を打ち消すための呪文なんです。

そして、それが許しであり、許されているということでもあるんですよね〜。

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