Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

根拠教からの目覚め

はじめに

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

日本人ってね。
結構自分のことを無宗教です。って言う人が多いんですよねー。
最近では、家に仏壇を置いてないって人もいますしね。

僕も、実家のお墓が、何宗なのかよくわかっておりません。

でもね。
きっと海外の人から見たら、
日本人って物凄い宗教的な民族に見えると思うんですよねー。

だって、
正月になったら、こぞって民族衣装である着物を着て、
夜中から神社に人が殺到しますし、
ご飯と食べるときは、手を合わせて
「いただきます」って言いますしねー。

僕ら日本人は知らず知らずのうちに、結構世界でも稀な宗教的民族だったりするわけです。

ちなみに、ひらがなの五〇音ってあるじゃないですか。
あれもサンスクリットを元に作られた配列であって、
サンスクリットはインドの古代仏教と繋がってますからね。

これもまた、宗教的だったりします。

天皇陛下もまさに宗教的な象徴ですもんね。

僕は、この日本の宗教的な側面はとっても好きです。
しかも、これほど宗教的な国民性であるにも関わらず、自身は無宗教だと思っている人が多いのも面白いですよね。

 

根拠教

さてさて、
僕らはそんな感じで、知らないうちに信じ込んでいる教義の一つとして、
根拠教と言うものがあります。

ま、根拠教というのは、僕が勝手に作った名前ですが、
人類が知らず知らずのうちに信じ込まされている宗教のようなものです。

この根拠教とは、どういうものかというと、
ありとあらゆる物事。
ありとあらゆる起こること。
ありとあらゆる考え方。

これらには、根拠があるのだ!

という教えです。

そして、この根拠があるという教えがねー。
僕らを終わらない探究へと誘うんですよねー。

根拠教の教えからの目覚め

探究の終わりとは、根拠教の教えからの目覚めであると言えるかもしれません。
それは、あらゆるものには根拠があるというマインドコントロールが取れるということです。

このあらゆるものには根拠があるという思い込み。
こいつが、自分自身をも縛るクサリになってしまっているんですよねー。

だからね。
自分というものを信じるにも根拠が必要となってしまうんです。

根拠のない自信を持ってたら、なんかイイ加減なやつって思われたりもしますもんね。

ちなみに宗教って根拠がないじゃないですか。
だから、人類の中でいろんな宗教が流行っていたときは、
イイ具合に根拠教から離れられて良いバランスをとっていたのかもしれませんね。

ただ、産業革命以降、神さまが科学的な根拠に置き換わっている今、
僕らは、昔に比べて、益々根拠教にがんじがらめになっているのかもしれません。

根拠と分離の概念

根拠ってね。
分離という概念がないと成り立たないものなんです。
そしてそれは、思考の中にしかない幻想なんですよね。
そもそも、分離というものは存在していません。

そういう意味では、量子力学は面白いですよね。
だって、あらゆるものは、あるでもないでもないし、
量子コンピュータでも、0と1以外に、曖昧さというものが介在しておりますからねー。
※スピ界隈の一部で言われているような量子論や遺伝子論はちょっと変だなーとは思いますが・・・。

これは、まさに分離がないから当たり前っちゃ当たり前なんですが、
思考という機能を使って分離という概念を大前提として、世界を捉えることに感覚的に慣れちゃってるうちは、なかなかよくわからない世界観のように感じたりするわけです。

概念は存在するものではない

根拠というのは、ただの概念であり、必ず存在するものじゃないんです。
まさに、宗教上の神様のようなものなんですよねー。
そして、根拠という実在しないクサリから放たれたとき、
僕らは、元々あった当たり前の「それ」を取り戻すんです。

そーなりますとねー。
根拠は自分を縛るクサリから、生きがいを遊ぶためのツールとしての概念になってくれるんです。

 

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