Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考のストーリーはひどい駄文だったりするんですよね

はじめに

はーい。
どうもどうも。
なんだか眠いタクさんです。

あれですかね。
季節の変わり目だからなんですかねー。

みなさんは、しっかりと眠っておられますでしょうか?

さて。
ぼくね。
モーニングページってのをやったりやらなかったりしてるんですけどね。
最近はまたやってるんですよ。
これが、なかなか良いんですよね。

モーニングページというのは、
朝起きたらなるべくすぐに思いついたことを書いていき、
ノート3ページ分を文字で埋めたら終了!
ってやつなんですけどね。

※モーニングページについては、詳しくはこの本に書かれておりますので、よかったらご参考まで!

 

ま、これはいわゆる瞑想と似たような感じで機能しているんじゃないかな〜って感じております。

瞑想は何もしないことによって、思考を手放していくものだとするなら、
モーニングページは、書くことでその思考を手放していくという感じですかね。

思考って、頭の中でリフレインされているうちは中々手放せないというか、
結構そのストーリーにハマっちゃうんですよね。

これは、映画にも似ていて、僕らは数分映画を見ているとその世界に入り込んじゃうんですが、思考のストーリーもまさにそのように機能し、僕らはこの頭の中のストーリーを聞き続けちゃうと、まるでそれが現実であるかのように錯覚し、そこに入り込んでしまうんですよね〜。

 

思考のストーリーはひどい駄文

でね。
まあこのモーニングページ。みなさんも一度、試してみればいいと思うんですが、
やってみますとね。まあこれ、読むに耐えない駄文ができあがるんですよね。

基本モーニングページはあまり見返さないんですが、ほんとくだらないことの繰り返しを書くことになるんですよ。

そして、このことが客観的にわかるという意味でも、中々役に立つんです。

普段、思考のストーリーはまるでそれが真実であり、重大事なことのように振る舞っております。
だからこそ僕らもそのストーリーに耳を傾けるわけなんですが、
一度客観的にみてみたなら、読むに耐えないストーリーなんです。

支離滅裂で、内容もくだらないことの繰り返しですしねー。

「ワシはこんなストーリーを真顔できいていたのか!」ってなもんです。

つまり、思考というのは、あまり真剣に聞くに値しないものなんです。

世界は常に新しい

僕らはそんな駄作のストーリーに心を奪われると同時に、この思考のストーリーによって視野狭窄にさせられていたんです。
つまり、見えるものをあまりにも限定的にされていたんですよね。

また、思考ってね。
クセのようなもので、だいたいいつも流れるストーリーって代わり映えのしない同じ様な物語なんですよ。

聞き飽きた漫才を何度も繰り返し聞いているって感じです。

飽きてるならもっと新作の漫才を聞けばいいのに、なぜか耳に馴染んだ同じ漫才ばかりを聞いてしまう。

っていう感じですかね。

年をとって頭が固くなってしまう。というのも、この同じストーリーにばかり浸っていることで起こってくるんだと思うんですよね。

これもね。
ちょっと逆説的になるんですが、思考のストーリーから離れれば離れるほど、オモシロイ思考ストーリーをみれるようになるんですよねー。

そして、思考のストーリーというものは、たまにそれに浸って遊ぶエンタメのようなものですので、なにも四六時中聞いていなくても良いんです。

そっか。思考って別に絶対的に当てにしなくて良いんだ!ってことを知るほどに、
僕らの心も軽くなりますし、がぜん目の前の世界が面白くなってくるんです。

だって目の前の世界は常に新しいんですもん。
ワクワクですよ!
僕らはその新しい世界に、見飽きたフィルターをかけてみていたんです。

 

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