Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ワタシと対象は、セットでひとつ

はじめに

はい。
おはようございます。
タクさんです。

みなさん。
ごきげんいかがでしょうか?

ところで皆さんは朝起きたあと、なんだか慌ててしまう!
なんてことはありませんか?

特に、目を開けたら見慣れぬ天井が目に入ってきた場合は、
現状把握にものすごーく焦ってしまいますよね。

僕も、若い頃は、しこたま飲んだ次の朝、
そんな焦りを覚えたことがあったような気もします(笑)。

そういえば、外で寝てたときもあったかも、、、。

さてさて、
寝てるときはな~んにも焦ってないのに、
起きた途端に焦るということは、
僕らは何かしらの対象を観察した途端に焦りが出てきているということですね。

そして、この焦りは「ワタシ」という概念を持った瞬間に出てくるんです。

僕らってね。
ずっとこの「ワタシ」と共にいるって思ってたりしますがね〜。
実は、そうでもなくてですねぇ。

「ワタシ」がふわっと出てくるのは、
何かしらの対象を観察した瞬間に出てくるんです。

僕らは常に対象を観察しているってわけでもないんですよね。
ボーッとしてたり、うつらうつらとしていたり、
はたまた、
なにかに夢中になっていたりする時などは対象を観察していません。
対象がない時は「ワタシ」もまたいないんです。

 

「ワタシ」とは対象を観察した時に現れます。

逆に言うと、なんの対象も持っていないと、ワタシは存在しておりません。

つまり、ワタシと対象はセットなんです。
セットでお得!じゃなくて、セットでひとつなんです。

なので、ワタシだけを消そうとしても無理ですし、
ワタシを消したあとの世界というものもありません。

私がいないを知ったなら、何かが変わるかもしれない。
ってねー。
僕らはちょっと憧れちゃったりするものですが、
そこは何も変わらないんですよね。

単に、対象は対象であると知るだけなんです。

観照

僕らは対象を観察した時、主体としてワタシというものを作り上げます。
ここでつくられるワタシは、対象に沿ったワタシなんですね。

そして、対象とワタシはセットであるので、ワタシもまた対象の一部なんです。

そして、対象とワタシのセットをセットとして見た時、
これらは溶け合い打ち消し合うんです。

するとココに全てが残るんですよね〜。
あとはただ、ココに在ればいいだけです。

ただ、朝起きた時に焦るのと同様にね。

ココに在ろうとすると、また思考は対象を求めて焦りだしたりするんですけどね。

そしてまた、対象とワタシの夢が始まるわけです。

ロープとヘビの話

ラマナ・マハルシさんのお話なんかで、ヘビとロープの話が出てきます。
暗闇に落ちているロープをヘビと見間違い、恐れおののく様子のお話です。

ロープをヘビと勘違いした時、僕らはこのヘビをなんとかしようと足掻き始めるわけですが、
それと同時に、ロープをロープとして見ようとはしないんですよね。

だから
どうしたらこのヘビは消えるんだろう?
と探求するんです。

これはロープだよ!
と聞いても、
「これがロープだと分かったなら、ヘビは消えるんでしょうか?」
ってなっちゃうんです。

でもヘビ(ロープ)は消えませんよね。
だから「今まで通りありますよ!」
ってなるわけですが、
それをきくと、
「だったら意味ないじゃ~ん」
って思っちゃったりするわけなんです。

対象とワタシの分離の話も似たようなもので、
どっちも対象なんじゃん!と知ると、ここに分離がないことも知るわけです。

コインの裏と表って同じコインであって分けることはできないよね。
ということと同じようなものなんですよね。

ワタシと対象のストーリーもまた起こっては消えていくんです。
分離なんてものが存在しない中、分離のストーリーも同時に起こっては消えていく。

分離の中のワタシからすると、どちらかに落ち着きたいと願うのもまた、
ワタシが分離の中にあるからこその願いだったりするわけでして、
それもまた美しいストーリーの一部なんです。


とまあ、今日はちょっとわかりにくいお話になってしまったかもしれませんが、
わかりやすく書き直すと、ちょっと明後日の方向に行ってしまいそうなので、
今日はこのままアップしちゃいました。

ではまた明日、お会いしましょ〜♪

 

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