Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

でくのぼうという自信の現れ

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はじめに

はいどうも!
タクさんです。

皆さんおはようございます。
今日もいい朝でしたか!

起きたら無意味にニコっと笑う。
気持ち悪い顔で笑うときっと良いことがありますよ!

さてさて。

僕、宮沢賢治さんの「雨にも負けず」が好きでして、
時たまこの「雨にも負けず」のフレーズを思い出すんですよね。

全文は検索してもらえれば出てくるので読んでみてください。
短い文章ですのでオススメです。

もともとは、手帳のメモ欄に書かれていたものだそうですね。

僕が一番気に入っている部分っていうか、どうにも気になっちゃう部分が、
みんなにデクノボーとよばれ、ほめられもせず、くにもされず、
そういうものにわたしはなりたい。

という部分です。

でくのぼうと呼ばれ、
誰にも認められずに気にもされない。
そういうものになりたいっていうのがねー。

普通はちょっと嫌じゃないですか。
でもそうなりたいってどういうことだろう??
って最初は思ってたんですけどね〜。

でも今はこれってきっと究極の自信なんだろうな。
って思ったりもするんです。

究極の自信というのは、究極の崇高さでもあります。
きっと、そうなりたいということなんじゃないかな?
ってね。
最近はそう思っております。

 

概念が自分と置き換わる

僕らってねー。自信がないときほど固定概念に縛られちゃったりするんですよね。
でね。この概念を必死で守ろうとしちゃうんです。

そもそも自信というものに根拠って必要ないんですよね。
なんていうか、自分のほうが根拠よりも川上にあるっていいますか、レイヤーが上位っていうか、上なんですよね。
ま、上も下もないんですがそうなんですよ。
だから、自信にわざわざ根拠を当てはめなくてもいいんです。

逆に自信に根拠を求めちゃうと、本来はそうじゃないのになぜかこの根拠のほうが自分より上位に来てしまうような錯覚に陥ってしまうんですよね。
この根拠こそが概念であり、この概念が固定概念となるわけです。

そして、固定概念に縛られ始めるんです。
なぜなら、概念が自分に置き換わってしまうからなんです。

なので、この概念を大事に持っておきたくなっちゃうんですよね。

固定概念に際限はない

この固定概念には、いわゆる地位だとか信念だとか国籍だとか職業だとか性別だとか、
身体という場合もあります。
もう色々とありますし、自分に置き換わる概念は一つではないのでいくらでも増やせます。
ですが、増やせば増やすほど、本来の根拠なしの自分というものがどこかに追いやられちゃうんです。

別に文化とか職業とかに誇りを持つな!って言ってるんじゃないですよ。
誇りは良いんですが、自分自身はその誇り以上だよね!ってことです。

ただ、僕らは自分が概念に置き換わってしまっているので、
「私」とはこれらの概念であるとどこかで錯覚しちゃうんですよね。

なので、「私」とは「会社社長である」とか、
「私」とは「男である」といったようなね。
単なる役割であるところの概念上の自分を「私」だと錯覚しちゃうんですよね。

そして、この概念がおびやかされるとき、「私」の危機だと錯覚してしまったりしてねー。
なので、この固定概念への執着も強くなるんです。

・無条件という自信と許し

「私はいない」という言葉はね。
私に一切の固定概念は存在しないということなんです。

「私」というのもまた概念ですのでね。
「私」という概念すら存在しないということです。

言い換えると、概念なんぞに縛られないということなんです。
縛られないようにするということじゃないんですけどね。
そもそも概念は何かを縛れないということの発見なんですよね。

なので、自信をもつのに概念を通す必要性もないので、無条件の自信となるわけです。

この辺はちょっと言葉にするとややこしく感じちゃいますけどね〜。

無条件こそ自信なんです。
「ああ、大丈夫なんだ。」ということなんです。
それが、平安であり安心でもあり、許しでもあるんです。

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