はじめに
へーい。
どうもおはようございやす。
タクさんです。
少しお休みをいただきましたがまた張り切って更新していきたいと思っております。
どうぞよろしくおねがいします。
今日は、散歩帰りで若干疲れておりますが、
みなさんは、どのような散歩ライフをお送りでしょうか?
ちなみに、一日1時間の散歩はとっても健康に良いらしいですよ!
オススメです。
まあでもね。
散歩ってね〜。
なんかいい感じで思考が馴染むっていうかね。
あれこれと悩んでるときは散歩してるといい感じに思考が離れていくんですよね〜。
なので、散歩はオススメですよ。
さてさて。
非二元でも悟りでもなんかとりあえずは思考から離れようとしますよね。
思考というものは、火のようなものでしてね。
油を注ぐとドンドンと燃え盛っていくわけです。
思考も、探求のエサを与えるほどに燃え盛り、
燃え盛っていくほど注目しちゃうというわけですな。
そしてこの探求のエサになっているもの。
それが、
「探すべきものはココではないどこかにある。」
という思いであり、
また、探すべきものは、自分にとって足りないものである。
という思いなんです。
ま、この思い自体が誤解のようなものですのでね。
誤解とは誤った解なわけですので、そこから始まった思考ちゃんの渦は何処まで行っても解に行き着かないというわけです。
思考から離れようとすること
僕らって、思考が作るイメージをガッツリ見ちゃってますからね〜。
これがイメージである。なんてことがすっかり忘れ去られてしまっちゃってるっていうかね。
もう思考のイメージがまるで真実であるかのように騙されてしまっているんですよね。
ま、誰に騙されているってわけでもないんですけどね〜。
なので、一旦ね。
ちょっと思考から離れてみようよ。ってなっちゃうわけです。
でも僕らってほら、欲張りちゃんですからねぇ。
思考から離れ続けよう!って頑張っちゃうんですよね。
そしてそれは当然うまく行かないんです。
そしてまた、思考に捕まっちゃうことを反省したりしちゃうんですよねー。
でもそれはそれで良いんです。
思考がどのようなイメージを作ろうと、それはイメージに過ぎないわけですからね〜。
思考から離れられない自分。
というのもまた、一つのイメージに過ぎないわけです。
思考を観るものも、離れるものもいない
結局行き着くのは、思考という個別の存在もいないですし、
そもそも、思考を観るものも、思考から離れるものもいないんですよね。
そして、思考という夢もまた存在そのものですし、それはただ起こっているだけなんです。
でね。
起こっていることっていわれるとそれを体験しているのが自分だし、それを解釈しているのも自分!
って思っちゃいがちなんですけどね〜。
そ~いうことでもないんですよね。
それもただ起こっているだけなんです。
個別がないということは主体者もいないってことなんですよね。
ただ、思考のストーリーの中でだけは主体者がいないと始まらないから、
仮の主体者が作られた上で、目の前の世界を思考上の解釈に置き換えているだけなんです。
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