はじめに
はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。
今やってるゲームがちょっと怖くてやや疲れ気味です。
だってねぇ。怖い人がみんな全力で殺しにかかってくるんですもん。
怖いですよねぇ。
ただ、ゲームのスイッチを切ればもう襲ってくる敵はやって来ません。
「あー!怖かった!もう一回やろう!」
ってなもんです。
夢だってそうですよね。
「わっ!夢か!はぁ〜良かった!」
ってなりますもんね。
ホント、大学の単位を落とした夢は何度も見たもんです。
あまりに何度も見てるので、
最近は、ホントにちゃんと単位取れてたんだろうか?というのも疑わしく感じたりして。。。
フィクションが崩れるメタ発言
よくゲームなんかでは、メタ発言なんて用語があったりします。
ゲームの物語設定内を飛び越えた発言。ということです。
要するにゲーム内のフィクションの内容に現実を織り交ぜるってやつですね〜。
例えばよくあるのが、ゲーム内のキャラがジャンプするときはAボタンを押してね!
といったようなセリフを話す。
みたいなものですね。
これが度を過ぎると、ゲームのフィクション性が壊れちゃうのであまり面白くなくなってしまうんですよね。
ま、なので僕はちょっとネットのRPGなんかはあまり好きになれなかったりするんです。
ゲーム内での会話はネットなので現実っぽい感じになっちゃうので、どうにも作業してる感じになりますからね。
夢だって夢の中でメタっぽい物が出てきたりすることもありますよね。
夢の中で、あ!これは夢か!ってなるやつです。
あれがあると、どんどん夢の中のフィクション性が崩れていくので目が覚めやすくなったりします。
ちなみにね。
ぼくらの思考のストーリーもまた、このゲームや夢と同じようなものですのでね。
このメタっぽいものを試してみると、覚めやすくなったりするんです。
ストーリーのフィクション性が顕になるとき
その一つが、今展開している思考のストーリーと真逆の概念をぶつけてみる。
ってやつですね。
あらゆる思考のストーリーはフィクションの設定によってできてるわけですが、その設定と真逆の設定をぶつけられると、
「あれ?今までの自分のストーリーってフィクションなの??」
って感じたりするんです。
エポックメイキングみたいな感じでしょうか?
ただそれも、結局の所、設定が変わったなら変わったで、また変わった方のフィクションに入っていってしまうので、結局ずーっとエポックを追い続けることにもなってしまいがちなんですけどね。
これはまさに、トゲを抜いたところに新しいトゲを刺すようなものだというわけです。
なので、「あ!」ってなった時に、そのまんまそこでリラックスしてみるっていうのがオススメなんです。
すると、
ストーリーって置いておいても何ら問題ないんだ!
ということに気づくんです。
思考ではわかり得ないこと
ただ、僕らがついやっちゃいがちなのは、
ゲーム内で、これはゲームであることを証明しようとする試みなんです。
これはね。
いくら頑張っても、ゲーム内ではゲームのプログラムで動いている以上、
それは不可能なんです。
これって、思考のストーリー内で、この思考はストーリーであることを証明しようとしても無理なのと一緒なんです。
「私はいない」を私が理解しようとするのもそれと一緒なんですね〜。
つまり「わからない」のは当然であって、わからないままで在ってみる。
これでいいんです。
わからないままで在ってみると、それでも在れるんです。
すると、そこで初めて僕らはいわゆる「探求のエネルギー」を観ることが出来るんですね。
この探求のエネルギーに引き寄せられてしまう引力のようなもの。
これが執着だったんです。
執着しないというのは、わからないままに在ってみるということなんですね〜。
そうすると、平安・安堵・至福は、常にいまここに在ることを知るんです。
それが、今に目覚めるってことなんですね。
ゲームのスイッチを切る。夢から目覚めるというのと似たようなものなんです。
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