Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

色メガネへのこだわり

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はじめに

へぇーい。
おはようございやす。
仕事初めから逃げ続けていたのですが、
とうとう捕まってしまったタクさんです。

いやーどうも。
ブログを始めて以来、初めての長期休養をいただきました。
長らく更新を止めておりましてスイマセン。

長く休ませてもらったおかげで、書きたい!気持ちが沸々と湧き上がってきております。
どうぞ今年もよろしくおねがいします。

さてさて、
昔、中国の始皇帝という方は、
一人称を朕(ちん)と呼んでおりました。

日本でも、昔の天皇は朕を使っていたみたいですね。

で、ある時始皇帝は、これを朕から真人に変える。
って言い出したんですね〜。

この真人というのが、老荘思想でいうところの仙人の中でも
最上級の仙人という意味なんだそうです。

仙人というのは、まあ神様的なもの?現人神みたいなものですかね?
ただ、字面から見るに、真人とは真の人ということであり、
僕らの本当の姿は仙人であるとも取れるかもしれませんね。

悟りというのももしかしたらそういった特別な人になる。
もしくは真の自分にめざめる。真の人間になる。
みたいなね。

そんな印象があるのかもしれません。

ま、真の自分とか、真の人間っていうのは、
そのとおりとは言えるのかもしれませんが、
そもそも、真ですからね。

ぼくらって、真に憧れちゃったりして、
嘘をどうしても避けたいって思うわけですが、

そもそも嘘って嘘ですからね。
なんていうか、嘘っていうのはずっと作り続けなきゃ存在できないんですよね〜。

そして、僕らは真(まこと)からは逃れられないんです。
ま、そもそも真しかありませんからね。

だから、あえて、私は真人である。
なーんてね。
そんなふうに名乗る以前に、僕らはもうすでに真なんですよね。

 

この話はどこかに向かうものではない

もともと真なんだよ!というこの話は、どこかに向かうものではありません。
何かを目指すとか手に入れるっていう話じゃないんです。

どこにも向かわなきゃ、すでに真ですし、そもそもどのように考えをめぐらしてみたとしても、どこかにたどり着くわけでもなければ、手に入れることもないんです。

ただ、ぼくらは分離の概念を元に湧き出している思考のストーリーを真実だと錯覚していたりしますのでね。
常にどこかに向かわなきゃいけないと思っておりますし、また、常にどこかに向かっていると思い込んでいるわけですねー。

そして、向かっている先が正解であってほしいし、正解に向かうための意味や意義があってほしいわけです。

だから、そういう材料を探し求めるわけなんですけどね。

でもこの話っていうのは、どこに向かうものでもないですし、
なんていうか、意味も意義もないんです。

真や完璧は目指すものではない

そもそも、真の自分なんてものも、完璧というものも、
目指すものではないんですよね〜。

これって、目指すことで不足を作っとる部分もあるわけなんです。

だから、この話は、
意味や意義もなく、どこに向かうものでもなく、
真実や完璧さを追い求めるものでもないんです。

悟りや真実というのは、とても平凡に今ココにあるものなんです。

まっ平らな壁には手をかける部分がないのと同様に、
あまりに平凡だと、意識を向けることも、掴み取ることもできないんです。

そもそも、ある種のイメージを掴み取ることってできません。
実態としては、繰り返しイメージを再生しているだけなんです。

目の前の世界をこのイメージを通して見るから、景色はイメージに色付けされたものになってしまっているだけでしてね。
真実は目の前から消えてはいないんです。

僕らはついついこのイメージの部分をより良いものに変えられないものだろうか?
と四苦八苦しておるわけなんですけどね。

良いは悪いが無いと成り立たないわけで、どっちにも転ぶのが自然なんですよね。

このイメージはいわゆる色メガネのようなものです。
この色メガネの色にそれほど深刻にこだわらなくてもいいんじゃない?
という提案が、このお話なんです。

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