Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私はいない」は安心材料ではありません

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はいよっ!
いらっしゃいませ!
タクさんです。

ショッピングTVなんかをみておりますと、
芸能人のみなさんがこぞって商品を褒めちぎるじゃないですか。

この商品はこれがいいですね〜。
あ!こういう使い方もできて便利ですねぇ〜!
みたいな感じでね。

なんか、あれを観ておりましたらねぇ。
お!これはジャズセッションだな。

って感じました。

ジャズセッションとしてショッピングTVをみてみるのも
ちょっと面白いかもしれませんね。

まーでもあれって、褒めすぎ!持ち上げすぎ!
って感じで、ちょっとわざとらしい感じもするんですが、
きっとあれで正解なんでしょうねぇ。

売上数がバッチリと出てるからこそあのやり方になってるわけですもんねー。
でも、あれをやればやるほど、テレビは少しずつ信用度を失っているんじゃなかろうか?

なーんて思ったりします。

ーー


さて、みなさん。
「絶対安心!」
なんて言葉を聞いたらどう思いますか?

絶対の安心!
うわぁ〜!めっちゃええやん!
それ、ほしいわぁ〜。

ってね。
そんなふうに思われる方も多いかと思います。

いいですよね。
絶対安心。
なんか絶対の部分に頼もしさを感じます。

ぼくらが、
地位を求めるのも、
お金がほしぃ〜って思うのも、
ずっと健康でいたいと願うのも、
やっぱり、安心がほしいからなんだと思います。

そして、安心というのは、危機がないことだ!
って思考ちゃんは考えるわけです。

なので、あらゆる危機の芽を刈り取ってしまっておきたい。
って思うわけですが、
まー、刈り取れば取るほどに、逆にどんどん増えてきたりするんですよね〜。

また、どうしても刈り取れない芽もあったりするわけでしてね。

「ああ、どうしたらいいんだ〜!」
ってなったりするわけです。


まあ、どうしようもないことだってありますからね。
だったら、もうそのことに悩まされないようになりたい!
って思ったりもするわけです。

そんな折に、
「私はいません」
「だから、どんな心配や不安も存在していません」

みたいな言葉を聞いちゃうと、

お!そうか!なるほど。
私がいないから、心配をしなくても大丈夫なんだ!

ってねー。
そんなふうに考えちゃうわけです。

でも今度は、
「私はいないってどうしても思えないんですけど〜!」
「どうしたらいいのー!」
ってなっちゃったりするんですよね〜。


これってね。
私がいないと思えたら、どんな事があっても大丈夫だと思えるはず。
って考えちゃったりしてるんですよね〜。

でもこれって無理ゲーです。

そもそも思考と私はセットですからね。
あらゆるストーリーには主人公がおるわけです。
主役がいなければストーリーは始まりませんからねぇ。

思考はストーリーそのものですので、主役である「私」がないと始まらないわけです。

そんなストーリーの中で私を取り去ろうとするっていうのはね。

まるで、「私はいないを理解した私」を作ろうとしているわけであって、
そんなのは、最初っから破綻しておるわけです。

・「私はいない」は安心材料ではありません
「私はいない」は安心材料ではありません。
そもそも「私はいない」を概念化しようとするのって無意味なんですよね〜。
僕らはついついなんでも掴み取って概念化しちゃうわけですが、
まあ、そうやって作られたものは全部ストーリーなわけでしてね。

このストーリーの中で安心を求めても、
ストーリー自体が分離の概念をもとに作られておりますので、
どうしてもそれは無理なんです。

いるでもなく、いないでもない。
正解があるわけでもなく、間違いがあるわけでもない。

そのど真ん中。
ここにただ在ってみることです。

すると、ずっとここに在ったこと知るわけです。
道は中道しか存在してなかったんですねー。