Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あるようで無い。無いようである。

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はじめに

ほい。
おはようございます。
職場での肩書はアートディレクターとなっているタクさんです。

とはいっても、僕はアートはやってないんですけどね。
デザインとアートって違うものですからね〜。

そもそも、デザインって自分が作りたいものを作るものじゃありません。
だから、好きに作ってくださいと言われると困ってしまうんですよね。
だって、そもそも作りたいとも思ってませんからねぇ。
課題解決がデザインなんですよね。

で、アートなんですが、これねぇ。
なんか定義がよくわからないですよねぇ。

定義を説明してくれる文章とかはあるんですが、
読んでもどうにもしっくりこないんですよね。

芸術ともいいますから、優れた芸や優れた技術のことなんでしょうけど、
もしかするとね、もうアートというものは実はとっくに滅んでいるのではないか?
って思うんですよ。

昔は写真なんかありませんし、緻密な絵を描ける人も、またその技術の習得もものすごく難しかったと思うんですよ。

だから、そういった芸や技術はとても貴重であり、
そういった人が作った制作物はとても希少性があったわけです。

唯一無二だったわけで、これこそが芸術でありアートだったと思うんです。

でも、複製の技術がものすごーく発達して、制作物は唯一無二じゃなくなってきたわけですね。
風景も、写真で、ものすごく綺麗に撮れちゃいますし、写真をパソコンで加工して色々作れますし、さらにはガンガンコピーもできちゃうわけですからね。

そうすると、唯一無二じゃなくなってきたので、
なんとか、現代アートのようなよくわからんものにしてしまって、
定義できないことで唯一無二な感じにしようとしとるんじゃなかろうか?
って思ったりもしてね。

定義できないから、よくわからんけど、定義できてしまうとアートじゃない。
みたいなね。

だから実はあるようで無くて、無いようである。
みたいなね。
そんなものにしてるんだけど、実はもうとっくに滅んでいる。
もしくは、身の回りにあふれているのはアートだらけになっている。
っていうのが、実際のところなんじゃなかろうか?ってねー。

 

あるようで無い。無いようである

まあ、アートに限らずなんですけどね。
僕らがあると思っているものって、本当にあるのか?というと無かったりもするわけです。
「私」がその典型ですよね。

私を定義しようとすると、やっぱりうまく定義できないんですよね。
だから、無いようにも感じるわけですが、感覚としてはしっかりと「私」という感覚はある。

これも、あるようで無くて、無いようである。
と言えるのかもしれませんね。

探求は無いを求めあるに変える

ちなみに、探求とは無いからこそ、探し求めるものです。
そして自己の探求とは、

いったい私は何者なのか?
どこから来て、どこに向かうのか?
本当の私とは一体何なのか?

これがわからんから探求するわけです。

ですがこの「私」がそもそも、あるようにみえて無く、無いようにみえてあるものですからね。
探そうとすればするほど肩透かしを食らっちゃうわけです。

なんでそんなことになるのか?
と言いますとね。

探求の前提がそもそも間違っていたんですね〜。

探求がなくなるとここに残るもの

探求の前提が間違ってる?
いったい何が間違っているの?

って話なんですけどね。

探求の目的は、無いものを探してあるに変えたいわけじゃないですか。

ということは、探求の前提として、
あると無いがある。
という大前提があるわけなんです。

まーこの、あると無い。
これがもう概念であり仮想のイメージなんですね。

そして、このあると無いという幻想をいったん置いておいてみると、
ここに全てが残るんです。

探求がなくなるとここに残るもの。
それが全てなわけですが、それは、
「ある・ない」という分離からの目覚めでもあるんです。

 

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