Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理屈からの解放

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【はじめに】

はーい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

なんだろねー。
ここ数年でなんか時代の空気感みたいなものがすっかり変わっちゃった。
なんかそんな気がしませんか?

数年前はねぇ。
インフルエンサー!
みたいな人がいてね。
なんていうか、意識が高くて、バリバリ仕事するぜ!

好きなことして稼ごうぜ!

みたいなね。

そんな空気が時代を覆っておりましたが、
今は、ちょっと頑張りすぎなくてもいいんやないの〜ん?
っていう空気感になってきたような。

なんかそんな気がします。

ビジネス系インフルエンサー!
みたいな人も、最近はすっかり鳴りをひそめてるような気がしますもんね。

ま、好きなことってね〜。
邪魔さえしなきゃ勝手に始めてたりするもんですからね。

ときに、頑張らなきゃならないってのが邪魔になったりするんですよね。
なので、肩の力を抜いて、ダラダラしたいときは思いっきりダラついてやりゃイイんじゃないかなって思います。

意味や意義なんぞは置いておいて、いっそのこと思いっきり意味のないことをやってみるというのも良いですよね。

ちゃんとサボりつつね。

 

【そもそも意味は理屈の中にしか存在しない】

意味のないことなんてやってどうするのよ!
ってな声が、頭の中から聞こえてきたら、それこそが幻想の声なんです。
そもそも、意味のあること、無いことなんていう分離は存在しないんですね。

ですが、頭の中は理屈でできていますからね。
この理屈によって分離が為されておるわけです。

だから、理屈に合わないことは受け入れられないんですよね。

だから、常に理屈を求めてしまうんです。

でもこれじゃぁ、理屈の奴隷になってしまいますのでね。
どんどん不自由になってしまうんですよね〜。

【この話は理屈ではありません】

「私はいない」というのも理屈に当てはめようとしてしまったりするパターンもよくあります。
「私はいない」から苦しみは存在しないんでしょう??

みたいな考えですね。

でもそれは違うんですよね。

そもそも「私」という概念は理屈の中の住人です。
「私はいない」とは理屈を超えた話。理屈以前の話ですのでねー。

これを理屈の中に持ってきちゃうとぜんぜん違うことになっちゃうんですよねー。

理屈の奴隷になってしまっていて、不自由になっているのに、
自由になることにも理屈を使って掴み取ろうとしちゃうっていうね。

それだと、いつまでたっても理屈の奴隷じゃん!
っていうね。
そんな事になっちゃったりするんですよねー。

【理屈からの解放】

この話は、そんな理屈からの解放の話なんです。
だから、この話を理屈で理解しようとするとハマっちゃうんですよね。

僕らはなぜか、理屈を無視するのをどこかで恐れてたりするんですけどね。

そもそも、理屈なんてものはあるようにみえて実際は存在しないお化けのようなものですからね。
怖がる必要はないんです。

理屈は襲ってきたり攻撃してきたりはしません。
そんな力は持ち合わせていないんです。

あらゆる理屈を採用せずにただ在ってみる。

これは、川の中で溺れてあがくのをやめてみるということです。

溺れていて、なにかつかめるものはないのか?と探している状態が、
理屈を探している状態なんです。

何も掴まずにただ立ってみると、その川はものすごく浅くて普通に立てちゃうんです。

立てるのに何を真剣に溺れていたんだろう?ってね。
立てることを知ると、笑えてきちゃうんですよねー。

理屈に合うものが意味があるものということではなく、
理屈自体に意味なんてなかったということですな。

 

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