Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては起こっていて起こっていない

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【はじめに】

ほい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

僕らってね。
何かをつかもうとする姿勢のときって、
何が足りないのか?ってなことに敏感になっちゃうんですよね〜。

でね。
そんなときに、
「私はいない」って聞くとね。

変な話、私には「私」がいる!つまり足りない。

まだ、私はいないになってない!

ってね。
そんな解釈になっちゃうんですよね〜。

ま、
ここが探求にハマるきっかけになってるのかもしれませんね。

よくね。
「私はいません」
「パーソナリティと呼んでいるものは残る」
「全てはただ起こっている」
「どんなことも起こりうるし、起こっていて起こっていない」
みたいなね。
そんな表現がされてたりするじゃないですか。

これねぇ。
一見よくわからないですよね。
でもよくよく噛み砕いてみると、な~んにも変わらんってことなんですよね。

というわけで、今日はこの辺をちょっと噛み砕いてみたいと思います。

 

【ただ起こっている】

「私はいません」と「パーソナリティとよんでいるものは残る」
これってね。
私はいないけど、アナタが「私」と呼んでいるものは残るよ!
ってことなんです。

ちなみに「私」というのはモノではなく、なんていうか香りや音みたいなものでしてね。
ぼくはこれを「働き」って言ってるんですけどね。

なので、モノのようにある・ないで区別できるものじゃないんですよね。
ただ、起こっていることなんです。

変な話、あるとないは同じですし、起こっていると起こってないも分かれていないんですけどね。

そして、僕らが「私」と呼んでいるもの。
それは普通に残るんですよね。

ただ、それって、僕らが直感的にいままで感じてきた「私」じゃないよね。
ってことなんです。

僕らは「私」というモノのような器があるって感じちゃってるんですよね。
その捉えた「私」ってのはよくよくみてみるとホント〜に無いんです。

【私という器は存在しない】

でも僕らって、私はいませんって聞くと、パーソナリティとして起こっていることが、
今後起こらなくなるということ?って捉えちゃうんです。

それは、そんなこと無いよ〜ってことなんです。

ただ、それは器でもなくモノでもなく、ただ起こっただけであり、
全ては起こっては消えていくもので、それを捕まえておくことなんて出来ないんです。

だから、あるともないとも言えないものであり、あるとないの両方でもあるんですよね。
これは、分けられないんです。

イメージとは、なんでも無いものに色付けしたものです。
ただし、実際に色付けしているわけではなく、そうみなしているものなんですよね。

起こっていることに色付けして、そうみなしているんです。

【動いているものに色はぬれない】

ただこの色付けって、動いているものには出来ないじゃないですか。
だから、イメージの中ではそれを固定化するんですよね。
そして、色付けをするんです。

そうやって作られたものを「私」とみなしているんです。

そして、この「私」を中心にストーリーを展開させるわけですね。
このストーリーに出てくるあらゆるものもすべて、イメージの中で固定化し、色付けされたものなんです。

ある・ない。この観念もまた、このストーリーの中に出てくるルールの一つなんです。
そして、このストーリーが展開されている間だけ、それらはあるんです。

僕らがわかろうとするとき、何をしようとしているのか?というと、
どう固定化し、どう色付けすれば良いのか?っていうのを探っているということなんです。

これは、どのように色付けしてもいいけど、それって無いよね。
ってことなんです。

ただし、色付けするという働きは残るわけです。
これは働きなので、あるでもないでも無いんですけどね。

と、いうわけで、噛み砕こうかと思ったら、噛めば噛むほどややこしくなっちゃいましたので、今日はこの辺で。。。


今年最後のセッションです。

takuteto.hatenablog.com