【はじめに】
ほーい。
おっはようございます。
タクさんです。
まーねー。
こういう話を聞いていたら結構混乱しちゃいますよね。
一体全体、誰が本物なんだ!
誰の話を聞いたら良いんだ!
ってね。
そんなことも気になっちゃったりしてね。
そりゃー、みんな商売だから独自性を出したい人もいるでしょうし、
そうなると、我こそは本物なりー!って言う人もいるでしょうし、
私だけが本質を言っておるのであーる!っていうオバちゃんもいるでしょうよ。
でもね。
これらは全部ちがうんです。
本物はあなたなんですね〜。
それ以外は何かしらのフィルターを通って入ってきた情報に過ぎないわけです。
良いですか。
便所の落書きも、自称私こそが本物だ!と言ってるオバちゃんの言葉も
価値の差なんて無いんですよ。
あなただけが本物です。
あなたの荷物をすっと取り除かれる時、その感覚をじんわりと感じてみるといいかもしれませんね。
それが、便所の落書きをみたときかもしれませんし、誰かの言葉を聞いたときかもしれません。
でもその対象に本物があるわけじゃありません。
あなたの奥にある本物が輝いとるわけですからね。
対象にフォーカスするんじゃなくて、あなたの輝きをストレートに出してやればいいというわけです。
【脚色と空】
ま、とはいえね。
こういう話についてややこしいと思うことも分かるっちゃわかります。
皆んないろいろといいますもんね。
なんでこんなややこしいことになってるねん?
って話なんですけどね。
通常僕らは生まれてきたときは「空」なわけです。
つまりどんなものにも脚色をつけてないわけですねー。
そのまんまをダイレクトにかんじているわけです。
でもね。
成長するに従って、人間の習性である「色」を身に着けていくんです。
人間の習性とは、無色透明の「空」に仮想の「色」をつけ、それを共有できるというちょっと稀な習性を持っているんです。
人間くらいですよ。
色んなものに名前をつけてそれを共有して共通の世界観を作ってる種族ってね。
他の動物もある程度は言語を使って共有することはしますが、
ダイレクトな「空」の性質はそれほど失ってはいません。
ですが、人間は「色」に極振りすることで、そのメリットとデメリットを享受しているというわけです。
【色もウソなら空もウソ】
まあそういう背景があるとして、いわゆるメッセンジャーの人の中にも
「空」こそが真実だという人もいるわけです。
「空」とは、色を通さないダイレクトな見方ですね。
ダイレクトとは思考を通さない見方ですね。
判断を通さないと言ってもいいです。
でもね。その「空」っていうのも片手落ちなんですよ。
それだと必然的に「空」は真実で「色」は偽物に分離されちゃうじゃないですか。
その分離すら無いんですよね。
だから、「空」こそブッダ!なんていう考え方はこれもまだ分離なんですよね。
この分離の夢に捕まっちゃうと、やたらと「色」とか思考を毛嫌いしがちです。
そして、「空」に在る時間をなんとか伸ばそうとし、その状態を維持しようと頑張ったりしがちなんです。
こんなもんは、「色」が「空」に変わっただけで結局一緒なんですよね。
また、いわゆる先生の中には「空」にいろんな色付けをして発展させていたりするパターンもあります。
それは結局「色」に戻っただけなんです。
ま〜この辺の事情がねー。混乱しちゃう原因となってるかもしれませんね。
一応言っておきますが、判断を通さないままに在ること。
それがブッダということではないんです。
通さないままであっても、判断に思いっきり乗っかってても、
どっちもブッダであるということなんです。
そして、このどちらかが真実というわけではありません。
どっちも目くそ鼻くそなんです。
【色即是空・空即是色】
ただ、「色」に極振りされた状態であれば、一旦「空」に極振りしてみてバランスを取るというのは、別に悪くないことだと思います。
ただ、「空」に極振りして、そこにとどまり、そここそ真実だ〜!ってのたまってもそれは「色」に極振りしてるのと一緒なんですよね。
どちらかに価値があるというのはありえないんです。
そこの中庸を取る。つまり「色」も「空」もありゃしないんじゃん。
ってことが、お釈迦さんの最後の気づきなんです。
そして、これが般若心経で言われる色即是空、空即是色の意味合いなんだろうな〜って思っておる次第です。
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