Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目的地はどこですか?ココですよ!

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【はじめに】

ふぁーい。
なんだか最近、いくらでも寝れる気がするタクさんです。
みなさん、良い睡眠を取られていますでしょうか??

まーねー。
今ここ〜。とか
空(くう)。とか
言われておりますけどね〜。

そうきくと「今」にあろうとしたり、
空に入ろうとしたりするじゃないですか。

瞑想をすると「空」に入ることが出来ます。

なんてね。
まことしやかに言われていたりもします。

でも、ここで言ってる話ってのは、
そういうことともちょっと違いましてね。

何かになるとか、何かに入るとかじゃないんですよね。

例えば、般若心経ってあるじゃないですか。
あれもねー。
修行者たちは、みんな「空」に入ろうとしていたんですよね。
それが悟りへの道なんだと思ってね。

するとブッダの弟子の一人が気づいちゃったんですよ。

「あ、ここがゴールやったんや!」

ってねー。

色(しき)から空(くう)に入るんじゃない。
色はそのまんま、ダイレクトに、即、空なんだー!
ってね。

やべえっ!
わしらは知覚や反応を持って何かを捉えていたかと思ってたけど、
それらって全部実体がないじゃん!

つまりは、あらゆるイメージや苦しみもまた実体がない。
そんな無いものが単に有るようにみえているだけってことなんじゃーん。

ってね。

それに気づいた弟子の一人が、そのことを別の弟子に教えてたというわけですね。
知らんけど。

 

【目的地はどこですか?ココですよ!】

さてさて、
もうすでに「今」しか無いんだ〜。
もうすでに「それそのもの」なんだ〜。
とは言ってもねぇ。

やっぱわからんし、実感もないのよ〜。
ってね。
そう思う方も多いかと思います。

だから、その実感を手に入れようとしちゃうわけなんですけどね。
なんど聞いてもわからんわいっ!
ってなっちゃうんですよね〜。

これってね。
例えば、京都駅はどこですか?
って、京都駅で聞いているようなものなんですよねー。

「京都駅はどこですか?」

『え?京都駅はここですよ。』

「ん?いや、わからん。その実感がわかないので、
どうすれば京都駅につけるのでしょう?
どこに向かったらいいですか?」

『いや、もうここが京都駅なんです』

みたいなね。
そんなやり取りがなされている。
って感じなんですよね。

「京都駅はどこですか?」
という質問には、その裏に
ここは京都駅ではない!というね。
確固たる信念が隠れているわけです。

そしてその信念が、京都駅を探そうとする原動力にもなっているわけです。
だから、聞いているわけですもんね。

そして、いくらここが京都駅だと言われても、
大前提として、ここは京都駅ではない!という信念が
デーンと存在しているので、その言葉は聞き入れられないんです。

【どう思おうがココがゴール】

結局ね。
そうじゃないと思っているココが京都駅なんですよね。
いくら、おもってたのとちが〜う!って言っても、もうココが京都駅なんです。

ま、それと一緒でねぇ。
いくらあなたはもうブッダです。
と言われても、
おもてたのとちが〜う!ってなっちゃうんですよね。

でも、その思いは関係ないんですよ。
思いは自分ではありませんからねー。
知覚や感覚や反応も自分ではありません。

だから、思いや知覚や反応を変えなくても良いんです。
思いに納得してもらわなくても良いということなんです。

僕らは、どうしても、思考様にご納得いただきたい!
ってやっちゃうんですけどね。

それは、雨乞いと一緒でして、
いくら雨乞いしたとしても、晴れるときは晴れますし、降るときは降るんです。

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