Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今、この瞬間に在る喜び

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【はじめに】

ほい。
おはようございます。
タクさんです。

感情を手放しましょー!とかいうとね。

えー!でも、喜びとか愛とか安心とか。
そういう感情も手放しちゃうの〜?
それは良い感情だから持ってても良いんじゃないの〜?

ってね。

そんな風に感じるかも知れません。

でもね。
実は喜びとか愛とか安心とか、
いわゆる良い感情ね。

これってね。
実は感情じゃなかったりするんですよ。

は?なんでやねん??
って思うかも知れませんね〜。

というわけで、今日はそんなことをテーマに書いてみたいと思います。

 

【実は感情に良い悪いはない】

実はね。
感情に良いも悪いもないんですよね。
ですが、僕らが何かしらの感情に引っかかってるとき。
そういうときって、いわゆる喜びや安心から遠ざかっちゃってるんですよね〜。

つまり、僕らが感情に引っかかってるときっていうのは、
いわゆる悪感情と呼ばれてるものに引っかかるわけです。

喜びや安心の感情は引っ掛けて来ないんです。

愛もそうなんですが、愛はねー。いわゆる執着心も愛だと錯覚してる場合があるので、ちょっと要注意なので、今回は置いておきます。

僕らが喜びに包まれたり、安心感に包まれたりするときってね。
感情や思考がスコーンって抜けたときだったりするんです。

だから、喜びを手に入れようとしたり安心を手に入れようとしたりすると、
変にハマっちゃうのも手に入れようとするからなんです。

【ギャップの快感】

ちなみに、愛も執着心が愛だと錯覚している場合があると書きましたが、喜びも錯覚がございます。
例えばね。
サウナなんかに入っていて、サウナから上がって水風呂に入るとするじゃないですか。
そのときって、気持ちいいですよね!
また、逆も然りで、水風呂に入って冷え切った身体でサウナに入るとこれまた気持ちよかったりします。
こういうギャップを楽しむ性質を喜びと錯覚する場合があるわけですが、これはいわゆる快感に近いものでして、ここで書いている喜びとはちょっとニュアンスが違うんです。

なんていうか、生きているイキイキ感!!!みたいな感じですかね。

【欲しかったものが手に入る快感】

希望や夢がかなったときも喜びじゃないか!
だとしたら、喜びは手に入れるものじゃないのか??

っていうご意見もあるかも知れません。

でもこれもね。
希望や夢や欲しい物の中に喜びがあるわけじゃないんですよね。

もしそうであるなら、それをずっと持ってれば、もうずっと喜びっぱなしになるはずなんですけどね。
きっと皆さんもそうはならないと思うんですよ。

かなった喜びはしばらくは続くかも知れませんが、やがて落ち着き、今度は次の欲しい物や希望に移り変わっていったりしてね。
そのときには、すでに手に入れた希望はもう喜びを出してくれなくなったりするんですよね。

手に入れた時点で希望は希望じゃなくなるわけです。

これもねー、希望を手に入れたのではなく、持っていた「叶えたい!」という執着が手放された。ということなんですよね。

そして、そういったものが手放されたとき、ずっとここにあった喜びが内面から湧き上がってくるんです。
ま、何かを手に入れたときの喜びは、それにプラスして、苦労と快楽のギャップによりこのギャップからくる快感も一緒に感じたりするから、
「うおぉぉおぉ!やったぜ!!!」ってな、ちょっとアグレッシブな感覚になったりもするわけですが、ここで言っている真の喜びはもっと静かでジワジワってくる感じなんです。

【今この瞬間に在るもの】

そしてその真の喜びは常に今、ここに、この瞬間にずっとあります。
だから、手に入れなくても良いんです。
手に入れようを、一度そっと置いておいてください。

すると、最初は地味で薄味に感じるかも知れませんが、静かではあるけど確かな喜びが湧き上がってきます。

この地味で一見静かな喜びは、どんなアグレッシブな快感よりも遥かに確かな喜びをきっと感じられると思います。

喜怒哀楽。これも形を変えた喜びそのものなんじゃんっ!って知るんです。
そして、それを取っておこうとせずに、ただ、そこに溶け込んでいたら良いんです。
取っておかなくとも、それ自身が真の自分なんじゃんってことですからね。

ま、分離がないからそもそも真の自分もいてないんですけどね。

 

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